あきらめるということ

子どもの頃、人生という道は常に未来に向かってのびていて、まるで終わりなんか永遠にやってこないような錯覚にすら陥っていた。

人はたしかに、いつか死ぬ。事実としてわかってはいても、それでもリアルに想像ができずにいた。

けれども年齢を重ねるにつれ、どうしたって人生の終わりが見えてくる。まだまだ若いつもりでいるけれど、それでも子どもの頃のように可能性は無限ではなく、体のあちこちから衰えの気配を感じる。

この体も心も、いわば消耗品なのだなあと思わされる。

新品のまま、ずっとピカピカではいられない。少しずつ手垢がついて、小さな傷が無数について、そのうちどうしようもない故障とかが見つかって、それでも騙し騙し付き合っていかねばならない。そんな感じになってゆく。

ピカピカには戻れない。傷ひとつない状態には戻れない。それでもそれなりに生きていかなきゃいけないし、まあなんだかんだで生きていけるものなんだ。

それをきっと、あきらめと呼ぶんだろう。でもあきらめって、実はそんなに悪いもんでもないと思うんだよな。

「置かれた場所で咲きなさい」みたいな話で、行きたかった場所があったけれどあきらめて、それでもだからこそ得られるものがあった、みたいなこともあるはずなんだ。ぜったいに。

ただ問題は、何をあきらめて何をあきらめないかって線引きだ。やっぱり中には、死ぬその時まであきらめちゃいけないコトってのもある気がする。あきらめなくてもいいコトが、きっとあるはずなんじゃないかな。

そこまでまるっとあきらめたとき、人生は急に色を失うんじゃないのかなあ。

すべてを手にできなくてもいいよ、ほんの小さな幸せでいい。それでも、死ぬその時までカラフルな世界を生きていたいな。

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