歯車

暑そうにワイシャツの腕をまくって、男の人たちが行き交う。ある人は携帯を耳に当てながら、「これから行きます」なんて話している。

圧倒的に家の中で過ごすことが多いわたしだけれど、こうやってときどき外に出ると、いろいろな刺激があるなぁといつも思うんだ。わたしはこんなちっぽけな存在だけれど、一応、ちゃんと、社会の歯車の一部になれていることを嬉しくも思う。仕事をせずに幼子と一日中べったり過ごしたあの日々は、それはそれはつらかった。自分からは積極的に外と関わろうとしないわたしにとって、あれは社会との断絶でしかなかった。孤独で孤独でどうしようもなかった。あの日々を思えば、今はまだ、いきいきしている方だろう。

子ども達にですら、社会がある。先日、授業参観で小学校を訪れたけれど、子どもには子どもの関わりがあって、そこで見る息子は家で見る息子とは少し違う顔をしていた。家にいれば、赤ちゃんの頃からの延長で甘えん坊のままなのに、学校では母の顔を見ようともしない。いっちょまえに、「ママが好き」なんてはずかしい、とか思うようになったようだ。

まだ園児の娘だって侮れない。彼女の周りにだって社会はある。仲の良い友達、一緒に遊びたくない友達、自分は好きなのに遊んでくれない友達。園児なりの人間関係に揉まれながら、日々生き抜いている。

ここではないどこにだって、社会があって。みんななんとかその中の歯車になって、生きていく。生きていけるんだと思った。ここにしか居場所がないなんて、他のところじゃやっていけないなんて、そんなのはたぶん、気のせいなんだって。

自分の奥から湧き出るような感情に従って、後悔したことなんかない気がする。たぶん。いつだって後悔は、感情を押し殺してしまったあとにやってくる。「本当はいやだけど、でも、こういういいところもあるからね」なんて後づけの言い訳に、意味なんてないのだ。それはただ、決断を先送りにするだけだ。

※ちょっと前に下書きに入れてたやつ。追記修正なくそのままアップしました。

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