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習っていない漢字に花マルをつける先生

 学校の先生が発信した、面白いツイートがあった。

習ってない漢字書いた作文はなまるして「辞書使ったのかな!?え、本から学んだの!?えらいね!!!」ってみんなの前でガン褒めしたらみんな図書室で小説借りて読むようになったけど管理職には怒られたって話でもする?(https://twitter.com/knrsgm/status/1299312639521075200)

 この先生はこのあと管理職に呼び出され、「習ってない漢字を使うことで、授業を聞かなくなったり、他の子と学力の差が大幅につくことで人を見下したり、そういう子になって欲しくない。辞書を読めない子や本が嫌いな子がかわいそうだ」というようなことを言われたそうだ。できる子は「人を見下す」というこの思考回路、管理職の言葉は、能力を伸ばすな、と言っているに等しい。ズレまくりである。(話はそれるが、私は昔から漢字が好きだったので、習っていようがいまいが、知っている字はガンガン使って作文でも何でも書いていた。中学の時、心に「沁みる」と書いたら分泌の「泌」に直されて、「国語の先生のくせにこの程度」と思ったことがある。これは「人を見下す」のとは少し違う。プロなのにこんなのでいいんですか、という気持ちだ。)

 昔から小学校というのは不思議なところで、習っていないことを言ったり書いたりすると褒められずに注意される、というのは多々あったけれど、最近その傾向がひどくなっている気がする。さらには、その指導内容にもわけがわからないものがある。例えば、4つの袋にチョコレートが3つずつ入っています、全部でいくつでしょう、という時、4×3と書くとバツにされる。3つのかたまりが4袋あるから、3×4なのだ。はっきり言ってどうでもいい(こんなルール、昔はなかったし、今でも中学以降には全く関係ない)。こんなものにしばられて、考えの流れの邪魔をされたら元も子もない。このツイートの先生は、この時も普通にマルにしているそうだ。

 また、名作とされる『ごんぎつね』、私の子ども時代にも教科書に載っていたけれど、今、国語では、ごんの気持ちを「想像」することに、異常な時間をかけるそうだ。堀越秀美さんの『不道徳お母さん講座』に記述があるのだが、とある小学校の『ごんぎつね』の学習指導案では、授業の半分以上が「いたずらをするごんの気持ちを読み取る」、「ごんを撃った兵十とその時のごんの気持ちを読み取る」ということに充てられているそうだ。これはエライことである。なぜなら、本来国語というのは文章を正確に読み取る力を身につけさせるものだからだ。書いてもいないごんや兵十の気持ちを想像しても仕方がない。それは道徳教育であって、国語ではない。国語なら、言葉、表情、動作、心情表現を拾い出し、そこからごんや兵十の気持ちを読み取るだけで十分だ。書いていないことを問うような国語の問題があったとしたら問題作成者が悪いし、高校入試でも大学入試でも、そんな問題は出ない(はずだ)。

 多くの知識を持つ子が授業でそれを必要以上に披露して邪魔をするなら、それはその子に問題があるので、知識のせいではない。しかしこの管理職の考え方だと、「余計な知識を身につけさせると授業中面倒だから、そういうことはさせない」ということになる。ここから考えると、今の学校教育で能力を伸ばすのは難しいんじゃないか、という気がする。このツイートをされた先生のように、興味を広げていくのは素晴らしい、知識を増やすのは素敵なことだ、世界が広がる、と教えてくれる人が増えることを祈る。 


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