いわゆる「推し」について(4)ー「解けない魔法」ー

 私が盲目的な愛を極めたTwitterアカウントを持っていることは最初に述べたが、ここでこの「盲目的」ということについて考えておきたい。

 今日のTwitterタイムラインに、落語家の笑福亭たまさんのツイートが流れてきた。落語会が自粛で開催されない間に、「ライトファンへの魔法は解けてる」だろうから、自分の落語会へのお客様は10分の1くらいになるだろう、というつぶやきである。「人間の癖づいた行動」を「たま落語が面白い」にすり替えていた効果が消えるからだそうだ。その代わり、また品質に向き合える、という言葉でツイートは締めくくられている。これを読んで、なるほど、と思った。

 私が尾野真千子さんの演技に魅了され、それが『カーネーション』で決定的になったことはすでに示した通りである。朝ドラというのは毎日ある。あの演技、あの魅力的な人物小原糸子、あの「人生において大切なことを笑いにしのばせてグイグイ伝えてくる脚本」に毎朝木の葉のように翻弄され、沼はどんどん深くなっていった。で、朝ドラ終了後は、過去作品を見ること、尾野さんに関するインタビュー記事を集めて整理することに邁進し、知れば知るほどこの人の「飾らない本物」の魅力に惹かれていった。その後、尾野さんは数々の作品に出演し、もちろん全部見た。中には作品としてどうなのさ、というものもあったが、演技は常に的確だったので、いつも「いいぞいいぞ」と思いながら応援していた。そして2014年夏、いわゆる「生で尾野さんに会う機会」が初めて訪れた。呉の映画大学における、『火の魚』のトークショーである。ショーの中身についてはすでにTwitlongerに載せているのでここでは省略する( https://www.twitlonger.com/show/n_1sphgru)が、それをきっかけに私はTwitterを始め、以後、ほぼ6年間、毎日毎日尾野さんに関する何か(時にはかなり強引に結びつけているが)を呟き続けている。このように「癖づいた行動」が「好き」の炎を灯し続けることに役に立っていることは、ある面確かであろう。Twitterにより、私は「解けない魔法」を自身にかけ続けているとも言える。

 しかし、本当に言いたいのはこのあとだ。何もないところから魔法をかけ続けることはできない。『カーネーション』以後、『最高の離婚』、『夫婦善哉』、『足尾から来た女』、『坂道の家』、『起終点駅』、『フジコ』、『夏目漱石の妻』、『素敵なダイナマイトスキャンダル』、『令和版怪談牡丹灯籠』など、必ずどこかで「うおおおお」と叫びたくなるような演技を見たことで、私は魔法をかけられ続けている。そしてそれをネタにTwitterで盲目的な愛を呟き続けることで、さらにその魔法は持続する。私はたまたま『カーネーション』で沼にはまったけれど、もしも朝ドラを見ていなかったとしても、必ずどこかでこの女優さんの演技には魅せられていただろう。

 『麒麟がくる』の放送休止により、「何でもできる謎の女」伊呂波大夫を見る楽しみも止められてしまったが、単なる「癖づいた行動」からではなく「尾野さんの演技への信頼感」から、まだまだ私はこの人を見続けることだろう。セカオワは「魔法はいつか解けるとぼくらは知ってる」と歌うが、私にかけられた魔法はまだまだ解けそうにない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?