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キネマ旬報ベストテン 主演女優賞に思う

 尾野さんが『茜色に焼かれる』で五つめの受賞である。しかも、商業的なものではなく、純粋に映画を愛する人たちのための賞ばかり、というところに、ファンとして誇りと喜びを感じずにはいられない。
 ところで人間には二種類ある、と私は思っている。棚ボタのある人とない人である。これは決して、棚ボタを「うまいことやりやがって」などと貶したいのではない。100の力のうち100を出すことで物凄いものを見せる人と、なんとなく周囲から引き立てられるように評価される人がいる、ということである。そして尾野さんは典型的な前者であろうと私は勝手に思っている。

 私が「この人何者?」と思ったのは『Mother』からなのだけれど(そこで『萌の朱雀』のあの女の子が立派になって、とも思ったものだけれど)、『殯の森』にせよ『Mother』にせよ『火の魚』にせよ『名前をなくした女神』にせよ、どれも一筋縄ではいかない難役で、100を出し切ることのできる人しか演じられない役柄だった。そしてもちろん、何よりもあの『カーネーション』!脚本が演技を引き寄せ、さらに演技が物語を輝かせる、という化学変化に翻弄され続けた毎日だった。糸子がそこにいるとしか思えず、糸子と一緒にあの世界に取り込まれたような日々は至福だったし、10年後の今、毎週月曜日にまたあの喜びを味わえることは無上の喜びである。

 『カーネーション』のあとも、『最高の離婚』、『夫婦善哉』、『足尾から来た女』、『坂道の女』、『起終点駅』、『フジコ』、『夏目漱石の妻』、『素敵なダイナマイトスキャンダル』、『令和版牡丹燈籠』などなどなどなど、「これはこの人にしかできない」と思うシーンを尾野さんは相変わらず全力で生み出し続け、私はずっとそれに惹かれ続けてきた。そしてこの『茜色に焼かれる』は、まさに「この人にしかできない」というシーンのみでできているような作品で、全身全霊で演じる尾野さんがさらにストッパーを解除したフルスロットルで「場を支配」し続けた。だからこそ私は圧倒され、何度も何度も映画館に通い、そのたびに射抜かれ続けたのだった。 

 ところで私は尾野さんの映画やドラマで最後のクレジットを見ていて不思議な気持ちになることがある。「(作品の)あの人に尾野真千子っていう名前があったのか」というような、「中に人が入っていたのか」というような気がするのだ。例えば、もう何回も見ている『カーネーション』でさえ、糸子はもはや糸子にしか見えず、「尾野真千子」と見るたびに、心のどこかで「誰?」というような気にさせられる。もちろん誰、ということは承知だし、最終回のあのクレジットには泣けたのだが、それとはまた別の話で、物語に没頭した時に役者が消えてしまう、という感じを私はこの人から教わった。これは先に挙げた作品の多くでも感じられたことだった。しかし『茜色に焼かれる』のクレジットに現れた、あの特大の「尾野真千子」には、また別の気持ちを抱いた。「この状況の中で、この人こそが作品を支えたのだ」という思いである。さまざまな登場人物が少しずつ物語を紡ぎ合う、というのではなく、あの作品は田中良子の物語であり、不条理も、妥協も、怒りも、笑いも、不思議さも、すべてを丸め込んであの世界を作り上げた尾野さんは崇高だったと思う。石井監督が「尾野さんの演技は祈りに見えることがある」と言ったのは、ああいう崇高さに対してだったのかもしれない。そして、この作品を引き寄せたのは、「棚ボタ」で役に恵まれるのではなく、自らが役を輝かせる尾野さんの力である。

 コロナ禍であの脚本を書き、尾野さんを良子役に「獲って」きてほしいと言い、こんな力に溢れた作品を生み出した石井監督、作品に関わったすべての人、そして何よりも尾野さんに、凄いものを見せてくださって本当にありがとうございました、と伝えたい。


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