『ワンダーウォール』をめぐる渡辺あやさんのインタビュー

 『ワンダーウォール 』は京都発の地域ドラマとして2018年の7月25日にNHKのBSで放送された、近衛寮という古びた京都の大学の学生寮を舞台とする物語である。建物が老朽化し、安全性が保証できないという理由で大学側が一方的に閉寮の通達を出してきた。学生たちは話し合いの場を持とうとするが、大学の学生課にはなにやら象徴的な壁ができ、窓口に立つのは「担当者ではない誰か」ということで埒が明かない。やがて建物の危険性が否定されたことから、ある教授が「合意せんわけにはいかんやろ、ことの筋として」と言い、学生たちはようやく自分たちの声が通った、と喜ぶのだが、まもなくこの教授は大学を去り、学生たちは再びどこに声を届ければいいのかもわからない状態に置かれてしまう。この物語は京都の大学に実在する学生寮の現状をも反映しており、この問題はいまも継続中である。それを表すかのように、ドラマは結論を出すことなく終わる。

 脚本家の渡辺あやさんに私は全幅の信頼を置いており、「この人から来るものはよきもの」という思いがある。そんなわけでドラマ『ワンダーウォール』もとても楽しみに見たし、一つの場所に恋をしてしまった若者の思いや、立ち向かえるはずの壁さえ失くされてしまい(失くしたのではない)、敵が見えなくなってしまった閉塞感もじっくり味わった。そのドラマが、このたび、新録シーンを加えて映画化され、全国で放映される、ということで渡辺あやさんのロングインタビューが公開された。非常に豊かな内容だったので、ここでまとめておく。

 この記事を読んだ時、「もどかしさと恐ろしさ」という言葉の並置が、ワンダーウォールという物語を象徴しているような気がした。誰かが声を上げないと、多分寮は潰れてしまう。けれど、声をあげてもそれは直接相手に届かない。となるとその声はどこにもいかないまま、事態だけが進行してしまう。これはとても恐ろしいことだが、いまの社会で実際に起こっていることでもある。事実、渡辺あやさんは物語を書く際に取材を重ねるうち、普段から抱いている問題意識と、京都の学生寮存廃問題とに多くの共通点を見出したという。
 では、声が届くとはどういうことなのか。近衛寮の原則は「全員一致」である。これは渡辺さんが取材した寮の実際の方針でもある。渡辺さんはこのことを「色んな人がいて、色んな意見を持っていても、それが誰か一人に集約されることはない。相手を尊重しつつ、自分も臆せず意見を出す。そして折り合いをつけていく」と語っている。これは非常に手間のかかる面倒なことだが、居心地のいい空間を作るためにはとても大切なことだ。しかし、こんなふうに時間をかけて作り上げてきた場が、有無を言わさず潰されようとしている。しかも、何とか対話をしたいと提案しても、担当者はいませんと告げられるだけで一方通行の叫びにしかならない。渡辺さんはインタビューの中で「若い時に悩んだり試行錯誤を重ねたりできる場があることは大切で、それを守るのが大人の役割」と言うが、しかしその大人の役割を「ことの筋として」と果たそうとした教授は大学を去り、組織の中でいわば「交換」されてしまう。こんなふうに対話もないまま、受け継がれてきたもののサイクルが断たれるとしたら、それはもどかしくも恐ろしいことではないか。

 それでは、今後声を届けるためにはどうしたらいいのだろう。渡辺さんはここで興味深いことを言っている。伝達の手段として危機感を持っていない人と危機感を共有するためには、怒ってはダメ、とのことだ。そういえば渡辺さんは、かつてのインタビューで「今後社会を変えられるかもしれない動き」とは、という問いかけに対し、「ゆるふわ」みたいなものなのかもしれない、と答えている*。これは非常に面白い指摘だ。言いたいことを言うときは、柔らかく言わなくてはならない。ど直球で挑むと、湯呑茶碗を投げつけられたり殴られたりする、ということを私たちは小原糸子でさんざん体験ずみではないか。怒りに免疫がない時代において、この傾向は一層強まっていくのかもしれない。そしてこのことは渡辺さんの作り手としてのポリシーにもつながっているようだ。このインタビューで語られた、「伝えたいことがあればあるほど、面白くなくてはならない」。これも「その方がおもろい」と百貨店の制服を着ていくように勧めた善作や、死してなお「おもろいもん」を見つけにいく糸子にさんざん見せられたものであるし、何と言っても『カーネーション』自体がその通りのドラマだった。

 この『ワンダーウォール 』というドラマが2018年に放送され、その後小さな波をあちこちで立てながらその流れを広げ、今映画として公開されていることは、非常に意味深いことであるように思う。これまでの日本は、何となくうまく行っている、という感じに惑わされて、効率性や生産性を声高に謳ってきた。しかし今回、そういう組織がいかに脆弱であるか、ということが白日の下に晒された。私が強い印象を受けたのは、少し前のインタビューにおいて今回のコロナ禍を「危機に対応できない体制が可視化されたという意味では、大きな前進だとも言えるし、むしろここからじゃないかなって思っています」と表現した渡辺さんの言葉である**。そしてその「先」として、渡辺さんは、哲学を思い出すことが必要なのではないか、という言葉でこのインタビューを締めくくる。ここでいう哲学とは、恐らく「信念」のようなものだ。好きな場所を守るという信念は、経済に支えられた組織の脆さを直視したあとではとても頼もしいものに映る。笑いながら「哲学」を見つけ、ふわふわとそれを深めていくことができればいいと思う。

*https://swamppost.com/enta/dorama/2475/。**https://www.nippon.com/ja/japantopics/c03084/#.XqpDlWv0UOo.twitter


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