若者と「批判するということ」

 「なぜ若者は、それでも『安倍晋三』を支持するのか」という記事を読んだ(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73403)。誰が誰を支持しようがもちろん自由なのだが、その理由の一つに、私は少し恐ろしいものを感じた。せっかくなのでここで考えをまとめておきたい。

 コロナ禍による自粛で国会を見る機会がぐっと増えた人も多いことだろう(私もその一人である)。また、打つ手打つ手に唖然とした人もたくさんいるだろう(なぜこの非常時に給食当番マスク2枚ですか、本気ですか)。こうした政策を反映してか内閣支持率は下落しているが、その反面、若者の間では首相は変わらず熱く支持されているというのだ。この記事では、その理由として「首相は若者にとってかわいいおじさんである」、「若者は、自分とその仲間がうまくいけばいい、という人生観を持っている」ということが挙げられている。ただし、私が注目したのはこの二つではなく、次の指摘だ。「若者にとって、『批判』の捉え方は一般的な理解とはまったく違う。」

 私は、「根拠に基づいた客観的な判断」が大切であり、その判断が肯定的であるか否定的であるかに良し悪しはないと考えている(今日のTシャツは青ですか、赤ですか、というようなものだ)。しかし若者にとっては、否定的であるということはすなわち「足を引っ張る」、「和を乱す」ということになるらしいのである。これには驚いた。もしも先頭を行く人の頭がずれていたらどうなるのだろう。ハンメルンの笛吹きについていく子どもたちのように、どこかに連れて行かれてしまうではないか。一体なぜこういう思考回路になってしまうのだろう、と考えたときに、芸能人の政治的批判について書かれた記事(https://president.jp/articles/-/35550?page=4)に紹介されていたツイートを思い出した。小学校四年生の国語の教科書に「こんなところが同じだね」という教材があるとのことで、そのツイートに貼られたページを読んでみると、二人組、四人組になって、次々に同じところを見つけて喜び合うものらしい。私が恐ろしいと思ったのはこれが国語の教科書であるという点で、先ごろ教科に「格上げ」された道徳で取り上げられても大概胡散くさい内容が、よりによって思考力を鍛えるはずの国語で教えられる、ということに、非常な薄気味悪さを覚えた。このツイートを上げた方(@pedi_eikoh)が「国語とは、文章を論理的に読む力と、文章を論理的に書く力。国語を教える教師は小学校だろうとも品詞分解は出来て当然。あと、過去に大量に文章を書き、そして徹底的に添削を受けた経験のある人しか国語を教えてはいけないと思う」と書かれていて、賛同のあまり膝をバシバシと叩きたいくらいのものであった。こういう教育を受けていれば、知らず知らずのうちに「同じなのはよいこと」、「輪を乱すのは悪いこと」という考え方を刷り込まれても不思議ではないし、ここから堂々と「異を唱える」態度が生まれるとは思えない。

 こうした指摘に衝撃を受けたので、身近にいる若者たちに意見を聞いてみたところ、いずれも「先生の言うことは聞くもの、と思っているので、小学校のときならこれが正しいと思っただろうし、今もしおかしいと思うことがあっても、表立って反対はしない」とのことであった。もしかしたら、厳格な家庭で育って、自分の欲求を通すのに親と交渉をしたことがないのかもしれないし、あるいは根っから素直な性格で、右と言われれば右、白と言われれば白、と思うたちなのかもしれない。素直な人は成長するとは言うけれど、それは適切な助言をもらえる環境にあってのことで、変な助言をもらったら変な色に染まりそうだな、とかなり心配になったのだった。

 ではどうすればいいのだろうか。娘、息子が小学校に入る時、私はかなり身構えていた。小学校の理不尽さは、自分の幼少時代に骨身に沁みているからだ。もし変なことがあったら、証拠を保存して出るところに出よう、くらいに思っていたのだが、幸いなことにというべきか、在学中に妙なことは一度もなかった。中学校でもなかった。これはラッキーだったし、剣は抜かずにすめばそれに越したことはない。けれど、必要とあらばいつでも抜いてやる、と準備だけは整えている。もっとも、親だけが気合を入れていても仕方がない。何も「尖っていることが若さの特権」などと思う気はサラサラないが、若者にはおかしいことはおかしいと感じる力と、それをうまく伝える知恵を持っていてもらいたいものだ。





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