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ルールを守ること—映画『茜色に焼かれる』を見て その6—

 『茜色に焼かれる』にはいくつかのルールが登場し、良子さんは「ルールだから」と自分に言い聞かせ、それを守ろうとする。けれど実際には、こうしたルールは良子さんと純平くんを決して幸せにはしない。「僕たちはいつもルールというルールに裏切られる。」では、二人はどんなルールに裏切られてきたのだろう。

 まず、ルールを守り、青信号の横断歩道を渡っていた陽一さんは、ブレーキとアクセルを踏み間違えた車によって殺される。加害者は決して謝らないままに逃げ切り、加害者の顔を見て記憶に留めようとした良子さんは葬儀場から追い出される。そのくせ、お香典10000円はちゃっかり取られる。また、加害者の息子は「あれだけ誠意を見せても、まだ足りないんですかね」などというが、実際には良子さんは何も受け取ってはいない。

 また、コキブリを殺せない良子さんは、当然花も捨てられず、傷んだ花をもらって帰っている。それを黙認していた花屋の主任は、誰かパートをクビにしなくてはならなくなり、ルール違反をしている良子さんに目をつける。ものの「道理」を考えた時、捨てるものをもらって悪いわけはない。しかし主任にとっては、上が決めたルールが優先され、それに違反する人は切ってもいい存在になる。そして仕事が終わってお店の前で電話していた良子さんの背中をどやしつけ、犬でも追い払うように手で「あっちへ行け」と言わんばかりの仕草をする。この時、もう勤務は終わっているのだから、電話をしたところでルール違反にはならないはずだ。けれど主任にとっては理由があればなんでもいいのだろう。こういうルールにいちいち突かれる良子さんを見ていると、そりゃあ「他人に使われるの、得意じゃないから」と言いたくなるのもわかる。あとでケイちゃんに語るように、自分の場所で、「誰にも指図されず、好きなように仕事をする」ことは良子さんにとって幸せなのだ。(ただし、恐ろしいことに、世の中にはこのことを幸せと感じない人がいる。ルールがないとどう振る舞っていいかわからず、盲目的にそこに従うことで安心する人たち、というのをこのコロナ禍でどれだけ見ただろう。根拠もないのに自粛自粛(もちろんここには映画館への休業要請も含まれる)、ウイルスを持っていない同士でも、それが確かめられないからと言ってマスクマスク、全く、店長の言う「意味ある?」だし、良子さんが居酒屋で言う「いろんなことやってるけど、意味あるかどうかわかんない、でもマスクはするでしょ」なのだ。ここで「意味ある?」というのは実は重要である。本来、意味のないルールは必要ないはずだ。下着は白、髪は黒、という謎の校則をはじめとして、この手のルールはあちこちに溢れて私たちを窒息させる。)

 さらに、極めつけが、物語終盤でのクズの上級生による放火である。この炎によって良子さんと純平くんは団地から出ていくことになる。「ルールを守らないとここにはいられなくなる」という良子さんの言葉が、皮肉にも他者の理不尽な振る舞いによって現実のものとなったのだ。この時、元凶となったクズの上級生については触れられない。これは理不尽そのものであり、『おかしの家』で猫が車を傷つけたことを理由にお店を売らざるを得なくなる、という展開を思わせる。石井監督は、その理不尽を成敗する代わりに、ただ飲み込ませる。こうして、冒頭に示した「僕たちはいつも、ルールというルールに裏切られる」という言葉が発せられるのである。

 このように、ルールを守ることで良子さんと純平くんがいい目に遭うことは皆無、と言っていい。それでも良子さんはルールを守れ、と言う。これは多分先が見えない状況だからだ。ただでさえ危うい状況にいるのに、ここでルールを破ることで罰せられたり、何かが壊れたりしたらどうしようもない。これは「自分のことでは怒れない」とケイちゃんが言う状況と、実は似ている。怒りを爆発させてしまったら、ただでさえ小さな自分の居場所がなくなるかもしれない、と思うと飲み込むしかない(これには経験がある)。そして飲み込んでいると人からナメられる(これも経験がある)。ルールを守る人は、この作品ではナメられる側にいる人なのである。

 では、ルールを破ることに関してはどうだろう。良子さんと純平くんが破るルールは、物語の中で三つある。まず「嘘をつかない」というルールである。良子さんはカリペロの仕事について、「変な仕事してないよね」と問われ、平然と「してるわけないでしょう」と答え、「父ちゃんに誓える?」と聞かれたら「もちろん」と言う。また、サチコさんって知ってる?と聞かれ、顔色一つ変えずに「知らない」と言う。二つめは、赤い自転車である。傷んだ花を持って帰ることがルール違反だ、と良子さんが言われた直後にこの話がきて、じいちゃんは「捨てるもんもらって何が悪い」と言う。正論だ。そしてこの自転車は、純平くんの世界を大きく広げてくれる。三つめは、傷んだ花である。取引先を優先して雇い入れた若い女の子に、主任はデレデレと仕事を教える。そこに真顔の良子さんがやってくる。「いらない花をください、廃棄するものを」と言い放つ良子さんに、主任はタジタジと「な、な、ないです」と言う。平然と花を選り、「廃棄する花」を堂々ともらってケイちゃんの葬儀に向かう良子さんは道場破りのようにカッコいい。二人はむしろ、ルールを破ることで平和を保ったり、幸せをつかんだり、プライドを取り戻したりするのである。

 ただし、物語の中にたった一つ、守ることで幸せになるルールがある。純平くんの成績がいいことを聞かされた良子さんが、シチューを食べながら純平くんにこう告げる(細かいところは違うかもしれない)。

もう一つルールを追加する。お金のことなんか気にしないで、行けるところまで行きなさい。バカなお母さんなんて放っておいて、どこでも飛んで行きなさい。そのためには健康でいてほしいの。元気でいてほしい。だから危ないこともしない。そのことだけは守ってほしいの。

 私はこのシーンが大好きだ。良子さんにとっての「母の愛」がここに集約されている気がする。優しい、とか見守る、とかではない、責任を持ってどこまでも背中を押す、という愛がここにある。世の中には意味があるかどうかわからない下らないルールが溢れているけれど、純平くんにはこのルールだけは守ってほしいと思う。




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