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タイトルの意味するもの—映画『茜色に焼かれる』を見て その3(ネタバレあり)ー

 『茜色に焼かれる』を最初に見たのが公開日の5月21日、以来この映画は私の頭の中に住みついてしまい、日々この映画のことをあれこれと考えている。今日はこのタイトルについて、ちょっとまとめてみた。 

 映画の中で、茜色はさまざまなところに差し込まれている。事故のシーンで画面の手前に映る柱、神社の鳥居、良子さんがデートで身につける服、純平くんのTシャツと自転車、熊木くんといよいよ関係を持つことになるシーンでの良子さんの下着、闘うシーンの真っ赤なワンピースと口紅、そしてラストから二番目のあの場面などである(ほかにももっと色々あるだろう)。熊木くんとのデートで赤いカーディガンを着た良子さんに対して純平くんは「母ちゃんが勝負に出るときは、必ず赤い色を差し込んでくる」と見抜き、さらに自分もケイちゃんに会いにいく勝負服に赤いTシャツを着て真っ赤な自転車に乗る。そして、ケイちゃんの葬儀を終え、自転車で帰る時に「もう負けそうだ」と言う純平くんに対し、「私も」と答えながら良子さんは「でも」と言葉を継いで「なんでだろう、ずっと夜にならない」と続け、親子は真っ赤な夕陽に焼かれながら自転車を漕ぐ。

 辛いことがあると、しばしば私たちは「明けない夜はない」という言い方をする。この時、私たちは「真っ暗な夜」にいて、夜明けの光を待ち続けている。けれどこの物語では、ずっと陽が沈まないままなのだ。良子さんと純平くんは、「まだ」光の中にいる。この夕焼けを「まだ勝負はついていない」と受け止めることもできるだろう。この時、光は良子さんと純平くんを包み込み、優しく背中を押す存在であるとも言える。「夕焼け小焼け」の歌は「負われて見たのはいつの日か」で終わり、子どもは自分を守ってくれる母の背中でこの風景を見ている。この映画ではその背中は自転車をこぐ母のものであり、純平くんはそんな母の背に向かって「母ちゃん、大好きだ」という渾身の告白をするのである。

 しかしその一方で、「真っ赤」な色、「焼かれる」には煉獄の火のイメージもある。風俗店で働く良子さんは、侮辱されようが穏やかに受け止め、その客をハグまでして「まあ頑張りましょう」と言う。さらに、客の扱いに怒りを覚えるケイちゃんと違い、良子さんは「私はオバさんだから、丁寧にしようと思ってる」などととんでもないお人好しな発言をする。この時の良子さんは、全てを受け止めるという点でどこかマリアさまのようだ。しかしいくらマリアさまであっても、人間界で生きる以上、そこには生活があり、稼がなくてはならないし、純平くんをきちんと育てなくてはならない。この世は試練の場以外の何ものでもない。さらに、穏やかとは言えないまでも親子の居場所を作っていた公営住宅の部屋は、クズの上級生による「炎」によって焼かれ、奪われる。

 こんな世の中の理不尽に対して、良子さんは女豹のアングラ芝居の中で「それでも私の生きる意義を試すのか!」と真っ向から問いかける。尾野さんはインタビューでこのセリフをどうしても言いたかった、と答えているが、これは神様に対する渾身の質問状のようなものだ。そしてこの質問には当然ながら答はなく、ギリシア劇の「デウス・エクス・マキナ」のように急に全てがめでたく解決するはずもなく、ただよくわからないけど自慢の母ちゃん、という純平くんの語りで物語は終わる。

 けれど、よくわからないけど大好き、よくわからないけど自慢、というのは究極の信頼と愛ではなかろうか。立派だから好きになる、とか、社会的地位(例えば高級官僚であるとか)があるから自慢、などというものでもあるまい。先の全く見えない生活の中で、それでも純平くんに「行けるところまで行きなさい」と言い放つ良子さんは果てしなくカッコいいし、「私は女豹だ。雌の豹だ」という良子さんの変なお芝居に「ん?」という顔をしながらも、そんな母ちゃんに純平くんは全幅の信頼を置く。物語はすっきりハッピーエンドでは終わらないけれど、それでも純平くんのいい男っぷりとか、味方になってくれる正体不明の成原弁護士とか、いざとなったらクズを徹底的にやっつけ、さらには大真面目にアングラ演劇の撮影までしてくれる店長とか、キラリと光る幸せの種のようなものはところどころにある。そして、こんなカオスをお芝居と真実というメビウスの輪でかわしながら生きていく、自らこそがカオスである良子さんを破綻なく体現した尾野さんは、やはり「化け物級」(by 石飛徳樹さん)としか言いようがない。


 


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