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『茜色に焼かれる』について、作り手に聞いてみたいこと

『茜色に焼かれる』は見れば見るほど色んなことを考えてしまう映画で、これまでとりとめもなく色んな角度からポツリポツリと考察を連ねてきたけれど、もし一つのまとまった形にするなら、どういう手順がいいだろうかと考えてみた。(『茜色』で卒論を書くなら、どんな章立てが可能か、ということである。)

1)作品の位置づけ:可視化された「社会的弱者」ということから、三つのキーワードに着目する。
 『茜色に焼かれる』はコロナ禍にある母と息子を描いた物語だが、コロナがもたらしたものだけを描いたというよりは、問題そのものはもともとあって、コロナによって可視化された、シングルマザーであること、カフェが閉店したことによる貧困、居場所が少しずつ削られていく閉塞感、「そういう家の子」であることからくるイジメが容赦なく描かれている。その中で、三つのキーワードに注目したい。

・本作は「なめられる側」にいる人々の物語であり、そういう人々はルールに従うことを言わば「保険」にしている。
・「なめられっぱなしでいる理不尽」を乗り切るために良子さんが取っている手段が「芝居」である。
・しかし、逆に「僕たちはいつも、ルールというルールに裏切られる」。
 
 この三点から、「なめられること」、「ルール」、「芝居」という切り口で考えていきたい。

i)「なめられる」こと:
良子さんが、なめられることに対して立ち上がるのが、担任の先生のうすら笑いを容赦なく糾弾するところ(純平くんのためであって、自分のためではない)、熊木くんに包丁を向けるところ、ケイちゃんの葬儀に行くために花屋の店長に「いらない花をください」と言いに行くところ。
→なめられることに対して、監督、尾野さんはどう考えているのか?(TOHOシネマズでのトークイベントで、なめられたと感じた時に尾野さんは良子さんのように立ち上がるのか、という質問があり、尾野さんは「立ち上がりたいのが本音だが、変なことを書かれるのでそうもいかない。ただし、現場で「この人は作品を理解していないと感じた時」、「尊敬している人を馬鹿にされた時」は立ち上がると答えていた。)また、理不尽なことを相手にもたらす側について、『おかしの家』でも『茜色に焼かれる』でも、石井監督はあえて放置している。勧善懲悪にしない、ということについてもお聞きしたい。

ii)「芝居」:
「田中良子は芝居が得意だ」で始まり、「まあがんばりましょう」は良子さんのお芝居である、ということがわかる。しかし、芝居をしている良子さんがお芝居をやめて本性を露わにするシーンがいくつかある。上で挙げた、なめられることに対して立ち上がるシーンである。ただし、お芝居をやめて本性を出す、というだけではこの映画は終わらない。

陽一さんが新興宗教にハマったという話をする中で、「神様を探すことは自分の心が露わになることを求めること」と良子さんは言い、その時に「神様」というお芝居のタイトルを決める。つまり、最後のお芝居には良子さんの心が露わになっているのでは、と思わせる流れになっている。また、お芝居とは「虚」のものだが、「お芝居こそが真実なの」という良子さんの言葉にあるように、その中にこそ真実が宿る。「愛してる、生き甲斐だよ」は純平くんの「母ちゃん、大好きだ」への返信でもあり、ケイちゃんが失くしてしまった「生きる理由」でもあり、良子さんの「生きる理由」でもある。
最後の女豹のお芝居について、監督としては良子さんの本性を明らかにさせたかったのではないかと思う。尾野さんとしては、どういう本性が露わになったと思うのか、監督としては、できあがりを見て、良子さんの本性とはどういうものだと受け止めたのか。またそれは、監督自身が思い描いていたものだったのか、ということをお聞きしたい。

iii)「ルール」について:
劇中で、良子さんが純平くんに課すルールには、「嘘をつかない」、「自転車に乗らない」がある。しかし、このルールを、純平くんも良子さんも破る。「変な仕事してないよね」、あるいは「サチコさんって知ってる?」と訊かれた時、良子さんは平然と嘘をつく。作品によっては、「嘘をついていることを視聴者に匂わせながら嘘を言う」ような演じ方もあると思うが、良子さんの嘘には全くその「匂わせ」がなかった。このように、ルールを破ること、世間が一方的にルールを課してくることについて、監督はどう思っているか?また、尾野さんは良子さんとして演じる時、どう思っていたか?
ただ一つ、「お金のことはいいから、行けるところまで行きなさい、バカなお母さんなんて放っておいて、どこでも飛んで行きなさい。そのためには健康でいてほしいの、元気でいてほしい。だから危ないこともしない。そのことだけは守ってほしいの」というルールだけは、良子さんと純平くんを幸せにするルールだと思う。私はこのシーンが個人的にとても好きなのだが、監督はこのセリフに特に思い入れはあったか?また尾野さんはどうだったのか?

2)「茜色」について:
 「茜色の母の戦い」から「茜色に焼かれる」にタイトルが変更されたことについて、どういう経緯だったのか?
「茜色」の夕焼けのシーンに関して、石井監督が「尾野真千子さんの表情っていうのは、僕個人は多分生涯忘れないだろう、っていうような表情でした」と語っているが、そのことについてもう少しくわしいことをお聞きしたい。
タイトル、ということに関して、タイトルバックの文字が非常に大きかったが、あの大きさはどのようにして決められたのか?(個人的には、画面いっぱいの「尾野真千子」の文字に、作り手の敬意と賞賛を見た気がしていた。)

3)演技について:
 監督の、「尾野さんを獲ってきてください」という願いと、「尾野さんの演技は祈りに見えることがある」という言葉の意味についてお聞きしたい。また尾野さんの、「私は自由にやりました。周りは大変だったと思います。私が好きなようにして、周りが合わせてくれるから。主演って、そういうもんなんです」という言葉の意味について、くわしく聞きたい。尾野さんは現場では好きなように、奔放に演じていたのか?それはいつものことなのか、あるいは今作がそういう作品だったのか?

さらに具体的なシーンについて:
i)「無理して生きてるの、ばかみたいですよね」と笑った後の「ウーン」について
「あれは一息に笑いきれなかったんです」と石飛さんの記事に書かれており、ここを読んだ私は「良子さんになり切っているから、本心ではないことには笑い続けられない」のか、と感じて、ただただ怖いなと思った。あるいは「本心ではないことを言った時、人は笑い続けられない」という思いからあのような表現になったのか?ということも尋ねてみたい。

ii)ぶりっ子シーンについて
 監督は「抑えて」と言ったそうだが、尾野さんは、聞かなかった、思い切り演じたほうが必死さが出ると思った、と言っていたけれど、そのあたりのバランスについて、監督と尾野さんの双方の言い分を聞いてみたい。「実際にはあの1.5倍くらいぶりっ子していた」ということだが、編集によってどの辺まで「ぶりっ子具合」を減らすことができるのか、ということについても知りたい。

iii)熊木くんとのホテルのシーンについて
 カットがかかると「となりの部屋に運ばれていった」とパンフレットに描かれていた。そしてTama映画祭の表彰式の際にも、「映画の現実に戻って来られなかった(3分くらい)」と語られていた。ただ、裏切られた時に、そこまで強い衝撃を受けない人も多いのではないか。そこまで打ちのめされるというのは尾野さんの性格なのか、監督はその辺りの激しさも見極めて、今回「獲ってきてください」と言ったのか、そのあたりのことをくわしく聞きたい。

 結果的に、「化け物級」(石飛徳樹さんによる)のものになったわけだが、尾野さんという人は、女優として、恐らくもともと「化け物」なのではないか、ということを監督に聞きたい。何かを要求した時に「その願い、叶えましょう」と尾野さんが答えたそうだが(キネカ大森のトークショー)、尾野さんとしてはどの程度「叶えましょう」と思っていたのか、監督としては「ここは叶った!」と思われたシーンはどういうところなのか、「撮る」ということについて、お二人のせめぎ合いというものを知りたい。

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