差別発言について

 アイヌの方に対して日本テレビでとんでもない発言があった、というニュースを見た。(https://digital.asahi.com/articles/ASP3D6HT9P3DUCVL01D.html?ref=tw_asahi)内容は紹介するだにおぞましいのでここには書かないが、番組にはテロップがついていたということで、決して生放送での突発的な個人的発言なのではなく、その発言をみんなが聞いた上で、それが差別に当たると気づかずにスルーしてしまった、ということが明らかになっている。

 私が差別発言について思うことは、次の三つである。

その1:差別発言に対して、「悪気があった・なかった」で片付ける人がいる。悪気があろうがなかろうが、人を傷つけてはいけない、というのは当たり前ではなかろうか。悪意も罪だが、無知も罪である。むしろ悪気なく人を傷つける、その無神経さを恥じるべきだろう。

その2:差別発言に声を上げると、「そんな大げさな」とか「言葉狩り」とかいう人が必ずいる。そういう人には、それがなぜ差別発言とされているのかをもう一度きちんととらえてもらいたい。森会長の発言しかり、松山ケンイチの「嫁」呼びしかり、自分はそう感じないから、そんなことにいちいち目くじらをたてるのはおかしい、というのは根拠にならないのである。

その3:(これが最もたちが悪いと思うのだが)差別発言だ、と言うと「寝た子を起こすな」という反応を示す人がいる。ここで声を出さなければ、みんなが差別というものを知らなくなるので、そういう差別は消えてしまう、というものである。そんな単純なものではなかろう。少なくとも歴史は知るべきだと思う。

 先日、九州地方で同性カップルのパートナーシップ制度導入を見送った、という新聞記事があった。住民の意見を聞いたところ、「反対」が多かったからだそうだ。その理由に「結婚して子どもをもうけるのが自然な姿だと思うから」、というのがあったことにはぞっとしたが、もっとすごい意見として「パートナーシップ導入により性の多様性を認めると、子どもの性別に対する考えが混乱する」というものがあった。これは最悪である。性には多様性が事実としてあるのだから、それを教えるのが大人の役割であると思うのだが、よりにもよって「多様性を認めると混乱する」とはなんなのだろうか。これは、世に存在する多様性にあえて目をつぶらせ、無知なままで生きていくように仕向ける、ということだ。教育の怠慢というヤツである。そしてこの考え方は、「事実に蓋をする」という点で上にあげた3)と同じだ。こういう意見を読むと、カミュの「無知は罪」という言葉を思い出してしまう。






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