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「ナメられる」ことへの抗戦—映画『茜色に焼かれる』を見て—(ネタバレあり)

 昨日、待ち焦がれていた『茜色に焼かれる』を見てきた。素晴らしかった。映画の紹介では、主人公の境遇や仕事、ちょっと不思議に見える口癖などに焦点が当てられていたのだが、実際に見たら、主人公をはじめとする登場人物の振る舞いにはすべて「一本の筋」が通っており、何らの矛盾も感じなかった。これは石井監督の脚本と、主演の尾野真千子さんの演技力(監督の言葉を借りれば「化け物級の演技」)、他のキャストの力量に依っている。

 そんなわけで期待に違わぬ素晴らしい映画だったし、二回見たとはいえまだまだ見にいきたい作品なのだが、その中で今回は「ナメられる」ということを中心に考えてみたい。

 人間は二つに分けられる。「ナメられる」人と「ナメられない」人である。主人公の良子さん、息子の純平くん、良子さんの同僚で苛烈な環境を生きているケイちゃんはいずれも「ナメられる」人だ。純平くんは時折この「ナメられる」ことに怒りをあらわにするが、良子さんはいちいち感情を出すことなく、まあ頑張りましょう、といなす。そして風俗店の客を優しくハグし、淡々と介護施設の費用を払い、養育費を払う。こんな良子さんに、私は「地上に降りた聖母マリア」を見た。風俗店ではさしずめマグダラのマリアであろう。(とは言いながら、決して「絵に描いたような善人」に見えるのでもなく、単に「心の広い人」というのとも少し違う。普通の人なんだけれど、何というかすべてをただ受け入れているのだ。その辺りの複雑な性格を尾野さんは見事に表現している。)だからいくら理不尽な目に遭わされようとも怒らない。夫を殺した元官僚の葬儀に行けば、加害者の家族から「訴える」と言われ、スーパーではコネのアルバイトを入れるためにポストを追われる。けれどそこで暴れたりはしない。元アングラ舞台女優の良子さんにしてみれば、この世の理不尽はすべて舞台上の出来事で、役者田中良子はその舞台で演技をしているようなものなのだろう。

 そんな良子さんが唯一立ち上がるのは、息子が学校で何かされたらしい、と気づいたときだ。このとき、責任逃れの言葉を繰り返し、ヘラヘラする教師に向かって良子さんは「息子の身に何かあったらただではおかない」と言い放つ。つまり良子さんは、他人のためなら怒れる人なのだ。劇中でケイちゃんは「良子さん、もっと怒った方がいい」と言うのだが、実は良子さんもケイちゃんも、他人のためなら怒れる。そしてこの怒りは至極真っ当であるために、見ていて強く共感してしまう。さらに、この母ちゃんがついていれば純平くんは大丈夫、とも思える。純平くんの知らないところで、良子さんはちゃんと戦っているのである。

 ところで、純平くんのためなら怒れる良子さんは、自分のことに関しては演技を続け、だんだん何が真実で何が演技なのかわからなくなってくる。そんな良子さんにひとつの転機が訪れる。かつての同級生に対する恋である。「母ちゃんが勝負に出るときは、必ず赤を差し込んでくる」と純平くんに見抜かれる良子さんは、本心から恋をし、真心を込めて自分の過去を語る。しかし相手はヘラヘラと遊び半分だったと明かす。ここで、世の中に対して薄い皮を一枚かぶっているような良子さんのあり方に変化が生まれる。勝負服の赤いワンピースに身を包み、包丁をカバンに入れ、待ち合わせ場所の神社で真っ赤な口紅をつけ、相手を待つ。そしてのほほんとやってきた相手に「私はナメられたと思ってる」と告げ、怒りの声をぶつけるのだ。

 ここで思い出したのが、カミュの『異邦人』である。主人公ムルソーは「僕のせいではない」、「自分には関係がない」、「どちらでもいい」が口癖の青年である(「自分には関係がない」、「どちらでもいい」は実は冒頭で登場する弁護士の成原さんが繰り返す言葉でもあるのだが、そのことは最後に触れる)。ある時、同じアパートの住人が引き起こしたもめごとに巻き込まれ、アラビア人を銃殺してしまう。裁判で問題にされるのは、殺人そのものではなく、ムルソーが母の葬儀で泣かなかったこと、母の年齢を知らなかったこと、カフェオレを飲み、タバコを吸ったこと、死顔を見なかったこと、葬儀の翌日に海水浴に行き、女の子と一夜を過ごしたことだ。そしてムルソーは、裁判の経過にあって、自分が「ゼロ化」されていくと感じる。事件は当事者のムルソーを差し置いて、勝手に審議され、ムルソーは死刑を言い渡される。そんなムルソーの魂を救うため、司祭が独房にやってくる。そしてもっともらしいお説教をしたとき、ムルソーの中で何かが弾け、司祭を怒鳴りつける。この時、ムルソーを覆っていた「膜」が破れ、言わばムルソーは世界とつながる。同様に、自分のためにようやく怒れた良子さんは、自分の心とつながることができたのではないだろうか。

 このあと、良子さんは自分を「ナメて」扱った、花売り場の責任者のところに向かう。かつて「捨ててください」と言われ、それが嫌でお金を払って買ったこともある「傷んだ花」を、今度は堂々ともらって帰る。まっすぐに前を見る良子さんの眼差しは痛快だ。そんな良子さんのありようを、純平くんはじっと見ている。

 ところで、「クズの同級生」の始末に関して、有能な弁護士がついてくれる、と風俗店の店長が告げる(この店長は、誰のこともナメたりしない)。その弁護士とは、冒頭で「自分には関係がない」、「どちらでもいい」を繰り返した成原さんだった。つまり成原さんは、良子さんをナメていたのではなく、単に自分の仕事をしていただけだったのだ。敵だと思っていた人間が、無条件で味方にもなってくれる、というこの展開は、さりげなく温かい。

 完成報告会で石井監督は、この状況に生きる我々に対し「この世の中の凄まじい理不尽、状況なんかに対する強い怒りっていうものも抱いていると思います」と呼びかけた。昨年から始まった新型コロナウイルスの感染拡大以来、国や自治体はしばしばピント外れな政策を繰り返してきた。私たちの払った税金は、さんざん無駄な方向に遣われて、きっと一部の業者だけが潤った。言ってみれば主権であるはずの国民は、政府によってずっとナメられ続けているのだ。「悪い冗談みたいなことばかり起きるこの世界で」愛するもの、そして自分の心を守るためには、凄まじい理不尽に真っ向から戦いを挑むことも必要なのかもしれない。

 今、このタイミングでこの映画が作られ、公開されたことに感謝したい。



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