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「お母さん」と「私」—映画『茜色に焼かれる』を見て その5—

 『茜色に焼かれる』が母を描いたものであることは言うまでもない。最初のタイトルからして『茜色の母の戦い』なのだ。けれど、人というのはお母さんであると同時にその人自身でもある。この映画でこの二つがどのように描き分けられているのかを考えてみた。

 純平くんがクズの上級生にイジメられて帰ってきたとき、良子さんはそのことを洗濯物から嗅ぎつける。そして夕食の席で問いただす。二人の間には「嘘をつかない」というルールがあり、イジメなどない、という純平くんに良子さんは黙って天を指差す。純平くんは「死んだ父ちゃんに誓える」というのだが、実はここには嘘が含まれる。そして、「お前の母ちゃん、売春婦だろ」という上級生の言葉に引っかかる純平くんが「変なことしてないよね」と聞くと、良子さんは平然と「してるわけないでしょう」と言い放つ。良子さんの嘘は実に巧みで、のちに「サチコさんって知ってる?」と尋ねられたときも、顔色一つ変えずに「知らない」と言ってのけるのだが、この「嘘とルール」に関してはここでは置いておこう。ここで注目したいのは「でも母ちゃんのカフェは潰れたんだよね」に関する返答である。この時良子さんは「でもまた開くよ。お母さん、人に使われるの得意じゃないから」と言う。次に、純平くんの成績が抜群であることを聞かされた時、良子さんはルールの追加を申し出る。そこで「お金のことは考えないで、行けるところまで行きなさい」「バカなお母さんのことなんか放っておいて、どこでも飛んで行きなさい」と言う。この宣言には良子さんの責任感があふれていてとても素敵なのだが、ここでも一人称は「お母さん」である。つまり純平くんとのルールが絡むときは良子さんは「お母さん」なのである。

 これに対し、自分のことをナメてかかった熊木に挑もうとするとき、良子さんは真っ赤なワンピースに身を包み、平然と包丁をカバンの中に入れ、「出かけてくる」と家を出る。後を追う純平くんに「悪いけど、お母さんだの何だのっていうのは一旦忘れさせて」と言い、「これは『私』の問題だから」とスタスタ歩いて行く。ルールだの何だのを一旦振り捨てて、良子さんがバンド仲間の言う「ものすごい本性」を発揮しようとする場面である。

 この文章のテーマからは少し外れるのだが、私は良子さんが本気で熊木を刺すつもりだったとは思っていない。「包丁を向けたい気持ち」は本心だったと思うのだが、刺してしまったら純平くんに未来はない。ただ、「ナメられたと思ってる」と良子さんが本心を語ってもごまかし笑いをし、「それについてどう思う?」と聞かれてもヘラヘラと「そういうのちょっと気持ち悪いよ」などと茶化したから、牙をむいたのだろう(何せ良子さんの本性は女豹である)。陽一を殺した有島さんの一族も同様だが、やはり人を傷つけたらきちんと説明し、謝罪すべきだ。それをしないヘラヘラ人間は、いつか人から「本気の報復」を受けても文句は言えまい。この「熊木を本当に刺す気だったか否か」については、舞台挨拶での「尾野さんへの質問」で聞いてみたい気もあったのだが、演者が答を言ってしまったら映画の魅力が失せるかもしれないと思ってやめた。

 話を戻そう。ケイちゃんの葬儀の後、二人は自転車に乗って茜色の空の中を進んで行く。この時、純平くんは「俺、負けそうだ」と言い、良子さんは「私も」と答える。この時の良子さんは、役割としての「お母さん」ではなくて「個人」として存在している。「お母さん」として負けそう、よりも「私」として負けそう、の方がキツい。二人の状況はもうのっぴきならないところまで来ているのかもしれないけれど、それでも「ずっと夜にならない」空に、不思議な希望があるような気もする。

 こんな風に、ギリギリのところでは「お母さん」ではなくて「私」になる良子さんだが、最後の場面では「闘う不思議な母」に戻る。「愛してる!生き甲斐だよ!」とぬいぐるみを抱きしめる良子さんのお芝居は、滑稽だけれど真実で、純平くんこそが良子さんの「生きる理由」なのだということが(これを失ったケイちゃんは死んでしまったが)、泣き笑いの中にしっかりと描かれる。




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