ポテトサラダと老害

 今日のTwitterでポテトサラダが話題になっていた。きっかけはこちらである。https://twitter.com/mitsu_bachi_bee/status/1280640234120568832

 「母親だったらポテトサラダくらい作ったらどうだ」と老人にいちゃもんをつけられて俯く幼児連れのお母さん」ということで、これは読むだけで腹が立つんだけど、どうせなら何がどう腹が立つのかを考えておく。

1)「ポテトサラダくらい」

 言っておくが、ポテトサラダには手間がかかる。じゃがいもを皮ごと茹でる→皮をむく→お酢をかける→玉ねぎをスライス→キュウリもスライス→人参は千切り→それぞれ塩を振って水気を切る→混ぜる→マヨネーズをかける(さすがにこれは手作りはしない)、という工程が必要だ。そしてできあがったものは、あくまでも「副菜」に過ぎない。虚しい。

2)「母親だったら」

 母親だったらどうだというのだ。幼児を見るのがどれだけ手間のかかることなのか、育児をしたことのない(であろう)ご高齢の男性にわかるというのだろうか。

3)「お説教」

 私はお説教をする人が大嫌いだ。そういう人は自分のことを相手よりも上だと思っていて、かつ「お説教をする自分」に酔っているからだ。だいたいお説教に有益な学びが含まれていたためしがない。望まれもしない忠告を一方的に聞かされる方の不愉快さときたら、何回思い出しても腹が立つくらいのシロモノである。(私がもしポテトサラダ事件の現場にいたら、後ろから「ポテトサラダくらいってどういう意味ですか。作ったことありますか。」「母親だったらってどういう意味ですか。育児をされたことはありますか。」と真剣に問い詰めたことであろう。)

 で、一番知りたいのは、このお説教爺さんがどんな気持ちでこういうことを言ったのか、自分の発言がこれほど人を不快にさせているのを知ったらどう感じるのかということである。多分言いたいから言った、不快になるとは思わなかった、というんだろうな。あるいは、不快になるということは、思い当たる節があるからだ、などと言い出すのかもしれない(こういう反応が最悪)。これはぜひ聞いてみたい。


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