話の短い「推し」について

 職場のPR動画を作ることになり、一人当たり2、3分でメッセージを、とお願いしてzoomで話してもらったところ、みんな簡潔にきれいにまとめてくれて、いい動画ができあがった。ただし、その場に一人、忘れて来なかった人がいて、放置でもよかったのだけれど、せっかくお願いしたことだし、と別撮りをすることにした。その際、2、3分で、こういうことを入れて(経験からの学び)、こういうことは入れないで(ストーリー)、と大まかにお願いしたのに、話し出したら長い。(見本の動画も、説明のパワーポイントも送ったのに、ソイツは見ていなかった!!しかも初対面だったので、話の腰を折ってまで「ちょっと長いわ」「そこ要らんわ」とは言えなかった。)見返したらなんと7分もあり、バサバサとカットすることにした。で、カットしながらつくづく思ったのが、「なぜ2、3分で、とお願いしたのに、それを無視して話し続けられるのだろう」ということである。2、3分、とお願いしたら、2分30秒程度に収めるのが人の道、というものではなかろうか。

 ところで私の「推し」、すなわち尾野真千子さんは話が短い。舞台挨拶でコメントを求められても極めて簡潔、それも真面目なことは滅多に言わず、ちょっと斜めからシュート回転で食い込んでくるような、絶妙にはずしたことを言って笑いを取るのだ。舞台挨拶での尾野さんは、その場にいる人を楽しませることに徹しているように見える(なぜならその前後に映画本編がくるわけだから)。私がそこをとても好ましく感じるのは、「役者は演技で魅せればいい」と思っているためである。あんなすごい演技をするのに舞台挨拶ではその片鱗も見せず、場を沸かせる係に徹する、というのは、何という潔さであろうか。このあたりを、『足尾から来た女』、『夏目漱石の妻』、そして『麒麟がくる!』の脚本家である池端俊策さんが絶妙な言葉で表現している。「ドラマの収録中、休憩時間に彼女はよくしゃべる。しかし演技についての話はまったく無い」「人なつっこく、雑談を好むが議論は嫌いだ。論理より感性。本能的に演技をする」この記述があれば、これ以上もう何も言うことはない。

 では尾野さんの本心は常に闇の中か、というと、決してそんなことはない。作品についてのインタビューでは、必ず本質的なことをぽろっと入れてくるし、何度か行ったトークショーでも、ここは大切、ということはきちんと自分の言葉で語る。その言葉に「水増し」がないのだ。感じていることを、酔うこともなく盛ることもなくそのまま出してきてくれる。だから信頼できる。尾野さんのインタビューの中で、多分一番頭の中のいろんなことを明かしてくれたと感じるのが『小説Tripper』での尾崎世界観さんとの対談で、そこでの尾野さんは演技に対する妥協のなさや、作品に対峙する時の自分の考えなどをありのままに語っている。それを読んで、「そりゃあそうだろう、ああいう演技をする人が、何も考えていないわけがない」と思って私は密かに「ウシウシ」と喜んだのだが、でもその言葉にも冗長なところは一つもなかった。見事なものだ。

 というわけで、これからもう一度、長い動画のインタビューで削れるところがないかをチェックしてくる。


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