物欲にまみれること

 今日は久しぶりに「やらかした」。何をかと言えば、衝動買いである。

 4月からテレワークになり、服に対してまったく気を使う必要がなくなった。zoomといっても首から上しか映らないし、画面では白がいい、と聞いて夏はずっと白のTシャツを着ていた。下はGパンである。そんなわけで「常にOFF」の服装で仕事をしていたのだが、今月、ついにアルバイトが再開されることとなり、人の目に触れる機会を持つことになった。そこで、久しぶりに服を見にいこうと考えた。

 もともと服は決して嫌いではない。むしろ「血湧き肉躍る」くらいに好きである。見た人に「面白い」とか「不思議」とか「ヘン」とか「派手」と言われるような服がいい。買うブランドもだいたい決まっている。(雑誌Precious に掲載されるような高級品ではないが、アヴァンギャルドな路線と言える。)これまで買った服があると言えばあるので、着るものがない!というわけでもないのだが、デザイナーというものはいつか亡くなるもの、ということを高田賢三さんの訃報によって実感したので、我がデザイナーが生きているうちに服を買っておきたい、という思いもあった。というわけで、慣れ親しんだ百貨店の、慣れ親しんだお店に行った。すると、いいジャケットが一枚あったのである。

 うーん、と思った。欲しいことは欲しい。けれど、黒のジャケットはあると言えばある。なくても死なない。でも欲しい。

 ここで思い出されるのが、私が女優オノマチに惚れ込むことになった朝ドラ、『カーネーション』の中の言葉である。主人公小原糸子は呉服屋に生まれながらも、幼い頃に見た舞踏会のドレスが忘れられず、常に洋服のことを考えている。ある日、集金に行った道の途中でパッチ屋の前を通り、そこでミシンというものを見てしまい、「これや!」と憧れの念を燃やす。頑固なお父ちゃんに何度も訴えかけて、やっとパッチ屋修行を認められ、ミシンを覚える。しかし不況のため、女である糸子は腕があるにもかかわらず、パッチ屋をクビになってしまう。その後、岸和田の町に、洋裁を教える先生がやってきて、お父ちゃんの力添えもあり、糸子は一週間で洋裁を教え込まれる。颯爽と小原家にやってきた根岸先生は、縫い方を伝授する前に、服を着るとはなんぞや、を糸子に説く。いきなり糸子にワンピースを着せ、町を歩かせるのである。恥ずかしくてうつむきがちだった糸子に、根岸先生は「いい服は着る人の品格と誇りを高めます」と言うのだ。

 「品格と誇りを高める」。なんと美しい言葉であろうか。私は「品」という言葉に弱い。人間の持っているものが全部そこに現れる気がするからだ。好きな服を着ると、人は堂々としていられ、かつ「品格」も備わるのだ。以来、欲しいなあと思う服に出会うたびに、私は「品格と誇りを高めるのだ」と自らに言い聞かせて買い続けてきた。今日も、結局買ってしまった。

 さらにもう一つ、その後で通りかかった別のお店の前で、ふといいカバンを見つけた。私はカバンも好きである。特に大きくて、素材がよければいうことはない。しかし、金属アレルギーがあって、夏は革の鞄が持てないということと、荷物が多いので、あまり上等の鞄だと傷めるのではないか、という思いから、通勤カバンは「妥協の品」を使っていた。それがついに少し破れてしまって処分したのだが、ちょうどその頃にテレワークに突入したこと、普段使いのカバンは自分で作るのでたくさんあること、車でちゃちゃっと職場に行くときには、その布カバンで十分であることから、通勤カバンの座は空白となっていた。その座を埋めるのにかなり適したカバンに出会ってしまったのである。

 これは、服以上に迷った。「かなり適した」と書いたが、実は通勤カバンにはちょっと贅沢とも言える。けれど、軽いし色もいい。革、というのが難点だが、カバンを入れる袋を中袋として使ってもいい、というアドバイスを受け、ついについにそちらも買ってしまった。大散財である。バイトは半年ごとに更新されるのだが、半年では追いつかないくらい遣ってしまった。これはもう、クビにならないように頑張るほかはない。カバンもきっと「品格と誇りを高める」と根岸先生もおっしゃるはずだ(と思う)。



 

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