いわゆる「推し」について(1)

 「推し」という言葉は新しくて自分で使うのはやや気恥ずかしいが、でもそのものズバリのことであるので使わせていただく。その「推し」が私の心に本格的に住みついたのは、朝ドラ『カーネーション』なのだが、でもその前からチラチラと、その人は私の心にかかる存在になっていた。ここでは『カーネーション』以前に心の中でなされていた「種まき」についてまとめておきたい。

 1997年、河瀬直美監督が史上最年少でカンヌ映画祭のカメラドール賞を受賞した。その作品は『萌の朱雀』、監督と同世代である人間、しかもフランス系の映画が好きな人間として、これは見に行かねば、と思って出かけた。圧倒されたのは山と木である。今の日本にこんな風景があるとは、と衝撃を受け、ここに暮らす人々がいるんだなあ、とか、生活に関しては子どもにはどうしようもないなあとか、最後のみちるさんの涙はリアルだったよなあ、とか、その手のありきたりな感想を抱きつつパンフレットも買って帰った。主演の女の子はシンガポール映画祭で主演女優賞を受賞している。それを知って「ああいう映画に出た子はそのまま女優になるのかなあ」などと漠然と思っていた。

 時は流れて2010年、水曜10時から始まる『Mother』というドラマを、何となく見ることにした。娘を虐待する重いテーマのドラマだったけれど、冒頭のシーンが映画のようで、「とてもちゃんと作られたドラマ」という気がした。また虐待する母が底知れぬ薄気味悪さをはらんでおり、松雪さんとつぐみちゃん(このあたりは役名と俳優名をごっちゃにするレベルの視聴者)を応援しつつ、時折この虐待母が出てくるたびに「うわ!」とか「来た!」とか、いちいち慄いていた。特にこの母が北海道から出てきたときには、「うわー来ちゃったよこの人!」と恐怖はMaxに達し、それでいて「来週まで待てない!」とも思ってHPのあらすじ検索をして、「どうなるのこの話!」と一人でバタバタしていた。東京に出てきてからのこの母のちょっと狂気を秘めたところがまた恐ろしく、特に濡れた髪を鬼太郎のように垂らしてこちらを睨む顔や、平然と焼きそばパンを平らげるそのふてぶてしさにも底知れぬ暗さを感じ、女優さんについて、「この人誰?」と思い、遅まきながら俳優名をネットで検索するという行動に出た。そこで知ったのが、「あの『萌の朱雀』の子!」ということで、「おお、お元気でしたか!」「女優さんになっていましたか!」と、しみじみしつつ、「これだけ人に恐怖を与えられるということはすごい女優さん」という認定をした。その認定が裏付けされたのが、虐待母に焦点が当たった第8話で、冒頭のあどけない「若いママ」がごく普通の赤ちゃんを可愛がる幸せなママであることにまず驚き、同じドラマの中で見ていなかったら到底同じ人とは思えないような、これまで見てきた鬱屈した虐待母と若きママとのギャップに唖然としつつ、この人が変貌を遂げる経過をじっくりと見守ろう、と覚悟を決めてこの回を鑑賞したのだった。そして、この女優さんは期待に違わぬ壊れっぷりを見せてくれて、号泣するところも、冷淡になっていくところも、自嘲の高笑いも、どれ一つとして不自然なところは全くなく、「尾野真千子」という名前はしっかり記憶に刻まれることとなった。

 また、この第8話が放送される前で、俳優名は認識しつつもまだ『萌の朱雀』の子だと検索する前のことだったと記憶しているのだが、NHKで「尾野真千子さん」という紹介とともに、黒いシャツを着たこの女優さんが映し出された。その時に「あの『Mother』の人!やっぱりただ者じゃなかった」と思いながら、朝の10分ほどで放送されたこの特集を見た。そこに登場したこの人は古めかしい女性編集者の役で、虐待母とは似ても似つかない出で立ち、端正な言葉遣いで凛とした女性として現れていた。特に印象に残ったのが、「このシーンで尾野さんは台本にない涙を流しました」というアナウンサーの言葉で、なんか凄いドラマっぽいなあと思いながら、タイトルも脚本家も何も認識せず、ただ「老作家と病を得た編集者の物語」ということだけを記憶に留めて、また水曜日がくるごとに『Mother』を見続けた。そして最終回、「道木仁美は出てこなかったなあ」と思いながら見たクレジットに「尾野真千子」の文字があり、最終回だからこれまでの出演者の名前を全部出すのかーとぼんやり眺めつつ、うーん、この親子の10年後の物語とか、是非また見たいものだ、と思って、この不思議な女優さんとの出会いはひとまず幕を閉じたのだった。(このクレジットの正しい意味を理解するのは、もっと沼にはまってからのことである。)



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