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良子さんの「お芝居」—映画『茜色に焼かれる』を見て その2(ネタバレあり)—

 『茜色に焼かれる』を見てまだまだ余韻に浸りつつ、とりとめもないことをあれこれと考え続けている。ここではその一つ、良子さんの「お芝居」について考えたい。 

 「田中良子は芝居が得意だ」映画はこの一文から始まる。けれどそれ以上の言及は何もないままに物語が進む。途中、亡き夫の命日に集まったバンドのメンバーから、純平は良子が「アングラ劇の女優」だったことを聞かされ、「情念」だの「すげえ芝居をする」だのと言われるが、そもそもそのメンバーたちが、どう見ても素晴らしい音楽を作るようには見えない人たちで、とても「トップのトップ」を取れるようには思えず、だったらそんな人に讃えられるお芝居とは何だろう?という気がするし、第一、日常の良子さんにはアングラの影もなく、この人が一体どんな女優だったのか、見当もつかないのである。

 そんなある日、純平は良子に理不尽さに対する怒りをぶつけ、「俺たちずっとナメられてんだよ」、「何で怒らないの」と尋ねる。そして「芝居してるの?」と聞く。それに対して良子は曖昧に頷き、別のシーンでは「お芝居だけが真実でしょ?田中良子の真実なの」と答える。このとんでもない世界を、良子はアングラ劇ではないお芝居をしながら乗り切っている、ということが純平にもうっすらとわかる。

 そしてそのお芝居がついに途切れる出来事が起こる。真剣だった恋が、相手にとってはただの遊びだとわかった日だ。風俗業に就いていた、という一世一代の心からの告白を、同級生の熊木くんは「えー、ちょっとなになにー」などと受け流し、自分が嘘をついていたことをポロリとバラす。これをきっかけに良子のネジがカチリと噛み合い、良子は自分のために怒る。お芝居だけが真実だったはずの良子の日常は反転し、自分の気持ちという真実が戻ってくる。

 しかし、この物語はそんなに単純なものではない。義父の介護施設でリモートによる演し物が行われていることを知り、良子は名乗りを上げる。タイトルは「神様」だ。いよいよアングラ女優、良子の本領発揮なのか?情念に満ちた「すげえ芝居」を私たちは見ることができるのか?と期待させつつ、物語はその撮影シーンへと移る。

 いかにもアングラ劇風の舞台装置の中に、女豹の装いをした良子が現れる。そして突然、小さなガゼルのぬいぐるみに向かって「私たちは結ばれるべきではなかった!」と叫び出す。この展開はまさに「アングラ劇」だ。けれどその時の「シャー」っという女豹の威嚇があまりにも真面目で滑稽で、私は笑いをこらえるのに必死だった。直前のシーンで涙させられただけに、ここでこんな笑いが来るとは思いもしなかった。さらにそこに純平くんの「何だコレ」という俯瞰的なツッコミが容赦なく入る。一方、風俗店の店長は大真面目に良子さんを撮る。良子さんの動きに合わせてカメラを構えるその真剣な眼差しも、やっぱりとても滑稽だ。『マクベス』の魔女が「きれいは汚い、汚いはきれい」(« Fair is foul, and foul es fair. »)というように、真面目は滑稽で、滑稽は真面目なのだ。そしてその滑稽さが純平くんのツッコミによって私たちと共有される。

 女豹の良子さんは、ガゼルに対してひとしきり恨みつらみを吐き出したあと、小さい豹のぬいぐるみを摑み、自分の子だと言う。残されたそのぬいぐるみを抱きしめ、良子さんは「愛している」と叫ぶ。滑稽なシーンの中に真実が宿る瞬間だ。日常生活で決して口に出さなかった息子への「愛している」を、お芝居の場で良子さんは遠慮なく伝える。これは直前のシーンで、茜色の空の中、自転車の後ろで純平くんが伝えた「母ちゃん、大好きだ」への返答でもある。これまで演じてきた日常のお芝居だけでなく、このいささか奇妙なアングラ劇にも、ちゃんと「田中良子の真実」はあったのだ。

 しかし、この映画の素晴らしいところは、この真実を決して「決めのシーン」として描かないところである。「愛している」と叫びながら良子さんは大真面目に(それゆえに滑稽に)パタパタと走り、純平くんがこのセリフを自分への真実として噛みしめて涙する、などということも断じてない。あくまでもこのアングラ劇は純平くんにとって「何だコレ」の「よくわからない」ものであり続ける。けれど、そんなところも全てをひっくるめて、良子さんはまぎれもなく純平くんの「自慢の母ちゃん」なのだ。その所以は、ここに至るまでの物語の中にしっかりと描き込まれている。

 


 


 



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