もうさりげないとは言えない差別表現

 これは、9月8日に書いた「さりげない差別表現」の続編というか、後日談のようなものである。

 つるのさんがパクチーを盗まれ、犯人は「日本語わかりませんの一点張り」と書き、さらに「犯人の目星はついている、近くの工場で働く外国人」とつけたしたことに対して、差別を助長するという意見があった。けれど米山さんが「豚を盗んだのは…」と斜め上の方向からツッコミを入れてしまったこと、町山さんがはっきり理由を説明することなく「被害者しぐさ」と言ったこともあって、多くの人はつるのさんを擁護した。さらに、つるのさんが町山さんに「お詫び」をしたことで、つるのさんは「大人対応」と大絶賛された。ご本人が「お終い」としていたように、ここで止めておけば多分ごまかせたのだ。しかしつるのさんは、蛇足というべきか、余計なことを付け足してしまい、そのために無意識の底にある(のか実は意識的なのかわからないが)差別意識が露呈してしまった。

 言っておくが、これはつるのさんを批判するために書くのではない。その人の存在とその人が言ったこと、行動したことは別だからだ。ここではあくまでもつるのさんの言葉のみを取り上げ、差別に関する私の個人的な考えをまとめておく。

 付け足しとは、次のようなツイートである。最初のツイートからは一部を引く。

「生きていて、そもそも差別という概念はない」(https://twitter.com/takeshi_tsuruno/status/1304558038704033792)

さらに、これに続ける形で次のようなツイートがなされた。

僕は今後も差別なんてしませんので、どんな人であろうと悪いことには悪いとハッキリと言います。差別を助長しているのは紛れもなく犯人本人であり、被害者が泣き寝入りしてしまう世の中こそ差別だと思うからです。改めまして、今回僕のツイートで気分を害した方々、本当にごめんなさい。今度こそお終い(https://twitter.com/takeshi_tsuruno/status/1304558041300312064)

 まず、「今後も差別なんてしない」は素晴らしい表明である。また「悪いことには悪いとハッキリと言います」も結構なことだ(だったらなぜ、安倍首相を批判する声に対し、「お疲れさまを言いましょう」と呼びかけたのかは謎だが、ここではこのことには立ち入らない)。問題は「差別を助長しているのは紛れもなく犯人本人」という考え方である。

 罪を犯したのは個人の問題だ。それを属性に結びつけ、一般化して広める行為は差別を助長するだろう。つるのさんがしたことはまさにそれなのだが、本人は全くそれがわかっていない(あるいは、わかっていないふりをしている)。そして「被害者が泣き寝入りしてしまう世の中こそ差別だ」は意味がわからない。これが当てはまるのは、マイノリティーに属する人が被害者となり、でも世間の波に負けて訴えられない、というような場合だろう。しかし今回は、このケースには全く当てはまっていない。確かに泣き寝入りする世の中はよくないが、だからと言って犯人の属性を、影響力の強い(青バッジのついた)芸能人がわざわざツイートする必要はない。「パクチーが盗まれた。悲しい。盗みは犯罪です!」でやめておけばよかったのである。

 というわけで、このツイートでつるのさんはある意味本性を現したと私は思うのだが、このツイートについているリプライの多くが「被害者が責められるなんて」をはじめとする「つるのさん擁護」だった。いや、別に擁護するのは個人の考えなのでいいのだが、一つだけ、「被害者であること」と「犯人について、余計な情報まで言ったこと」は分けて考えなくてはならないだろう。被害者だからと言って犯人の属性を言い立てるな(3回め)、という単純至極な話である。この話が通じない限り、なかなか差別というのはなくならないだろうなあという気がした。

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