見出し画像

「オリンピックを招致したのは私たち」について(2022.1.3.投稿分)

 河瀬監督の発言が物議を醸している。NHKで放送された『河瀬直美が見つめた東京五輪』で「オリンピックを招致したのは私たち」、「そしてそれを喜んだし、ここ数年の状況をみんなは喜んだはずだ」「これはいまの日本の問題でもある。だからあなたも私も問われる話」と発言したからだそうだ。私はこの放送を見ていないのだが、少なくとも字幕で監督の言葉が出ているのだから、そうそう妙な切り取りなどではなく、実際に監督は「日本がオリンピックを招致した」のだから、国民である「あなたも私も問われる話」と考えているのだろう。
 しかしツイッターでは、「利権につながる政治家たちが嘘と賄賂で招致したのであって、『私たち』とくくるな」という意見をはじめ、要するに自分は「私たち」には入らないという人たちの、監督への反論があふれている。この「私たち」について、ちょっと考えてみよう。
 論述には国によって様々な方法がある。英語圏では、様々な根拠を挙げながら、自分の意見をまっすぐに主張していく。これに対してフランスでは、自分の意見はいったん脇に置き、対立する二つの立場から、どちらに対しても根拠を持って公平に論じていき、最後に二つの立場をすり合わせた「発展」を示して結論とする。ここではあえて、「フランス方式」で賛否について双方の見方を確認することから始めたい。


1)「オリンピックを招致したのは私たち」である
 日本はオリンピックの開催地として立候補し、安倍首相(当時)は福島の原発を「アンダー・コントロール」と断言して安全をアピールした。最終的に、東京はイスタンブールに勝って、オリンピックの開催が決定した。国として招致したのだから、国民である「私たち」もその役割を担っている。


2)「オリンピックを招致したのは私たち」ではない
 オリンピックには初めから関心などないし、まして東日本大震災の後、東北の復興の方が先なのに、対外的なことばかりに目を向け、事実には蓋をして「原発は安全」と言い切ってまで必死で招致したのは国のごく一部の人々だった。よって、「私たち」と言って一つにくくられるのは納得がいかない。しかも、新型コロナウイルスの感染拡大により2020年は延期、2021年は前年よりもひどい感染状況だったにもかかわらず、無観客開催だから、とか、入国したら選手村に直行するから、とか、開催中は競技場と選手村を往復するだけだから、などと主張し、自宅待機者が次々と亡くなる中、選手のためなのか、スポンサーとなった企業の利益のためなのか、とにかく開催が強行された。いずれにしても、この状況でオリンピックを招致すべきだったのか、その点からしてすでに疑問だ。


3)「私たち」とは誰なのか?
 オリンピックが国を挙げての行事である以上、国民は皆「招致した私たち」に含まれるのかもしれない。しかし、招致したのが「私たち」であるなら、国の状況を共有するのもまた「私たち」ではないだろうか。オリンピックどころではない人たちは数多くいたのだし、コロナ禍で自宅待機者を診察する医師が、「こちらが生死を賭けた戦いをしているときに、テレビの向こう側では着物姿の知事が旗を振っていた」というコメントを残していたことも紛れもない事実だ。だから「私たち」にはオリンピックにワクワクした人も、無関心だった人も、反対した人も、全てが含まれるはずなのだ。よって河瀬監督の発言で最も気持ち悪いのは「ここ数年の状況をみんなは喜んだはずだ」という言葉だろう。この言葉によって、「私たち」とはすなわち、オリンピックを喜ぶ側の人たちだけの話になってしまった。そして監督のドキュメンタリー映画は、あくまでも「オリンピックを喜ぶ私たち」の視点だけを容れたものになる、ということも明らかになった。強いもの、放っておいても勝つもの、困窮など無縁のものだけの世界を描く姿勢を監督は選び取ったわけだ。


 河瀬監督という人のことが私は実はよくわからない。消えそうな地域に確かに生きている人たちを撮り、毎年その地域の人たちの集う機会を作っていることは事実だ。その反面、オリンピックや大阪の万博など、利権まみれであってもとにかく「目立つ場」で映画を撮り、テレビで維新を臆面もなく推し続けるハイヒール・リンゴと仲良くする、というのもまた事実だ。名声がほしいのか、映画を撮り続けるための作戦なのか、本当は何がしたいのか、機会があれば聞いてみたいけれど、もちろんそんな機会はないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?