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サロン妄想

 来月のフランス文学講座で、ドーデの『アルルの女』を紹介します。ドーデといえば、昭和40年代生まれの人までは、教科書に掲載されていた「最後の授業」を覚えている人も多いことでしょう。主人公フランツくんが遅刻して学校に行き、先生に怒られる!と思ったら、先生は優しく迎えるし、みんなは静かに勉強しているしで訝しんでいたところ、先生がおもむろに「今日はフランス語の最後の授業です」と告げます。フランツくんは「今日が最後だというのにろくに読むことも書くこともできないとは!」と後悔し、先生は「ある民族がどれいとなっても、その国語を保っているかぎりは、その牢獄のかぎを握っているようなものだから、私たちのあいだでフランス語をよく守って、決して忘れてはならない」(桜田左訳)と告げて、「フランス アルザス フランス アルザス」と書き取りをさせ、最後に「フランス万歳!」と黒板に書いて授業を終えます。
 無邪気な小学生は「自分の国の言葉を大切にしなくては!」とコロリと洗脳されるのですが、実はこの小説は、普仏戦争直後に発表されたプロパガンダで、この地方の人たちの母語は、フランス語ではなくアルザス語でした。アメル先生がフランツくんに、ドイツ人たちは「君たちはフランス人だと言いはっていた。それなのに自分の言葉を話すことも書くこともできないのか!」と言うだろう、と告げるシーンがありますが、母語であれば「話すこともできない」ということはあり得ません。また、フランツという名前も、フランスという意味はあるものの(これは聖フランチェスコから取っているからで、愛国云々とは関係がない)、ドイツ風の読み方です。このことが研究者たちによって明らかにされ、この作品は1986年を最後に教科書から姿を消しました。

 という長い前置きはともかく、「サロン妄想」とはなんぞや、という本題に入ります。サロンとは、貴族たちが自宅の客間を開放して、芸術家、政治家など、自分と思想や嗜好が合う人たちを集め、人々はそこを社交の場として人間関係を広げたり、芸術論を戦わせて教養を深めたりする場としていたものです。その後、教養を身につけたブルジョワたちもサロンを開くことになるのですが、講義の資料のためにドーデの生涯について調べていたところ、この作家も同じくサロンの主人であったことがわかりました。

 ここで、サロンを巡る妄想がスタートします。私は子どもたちがわらわらと集まる「場」とか、大人たちがわらわらと集まってあれこれ楽しむ「場」を作りたいと思っており、スナック経営はあくまでもその一環に過ぎないわけですが、ドーデについての記述を読んで「サロンでもいいやん!」という気になりました。豪華なしつらえなどはなくても、居心地のいい場所に美味しい飲み物を用意して、とりとめもない話をしたり、ふと思いついたらいきなり勉強会をしたりして、楽しい交流の場ができたらいいなあとあれこれ考えています。そして、スナックのために用意した「クレデリアン」(créer des liens :結びつきを作る)という名前は、この場にもぴったりなのでした。

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