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こだわりを捨てた、その後の話

 先日、いいものを持つ、ということに変なこだわりがあると気づいて、それを捨てた、ということを書きました。そのおかげで、別宅となるアパートのカーテンを遮像のもの一枚で収めたり、100円均一のグッズを取り入れたりして、いわゆる「無駄金」を減らすことができました。その続きとして、今日はキッチンマットを買いに、某量産店に行きました。百貨店で7000円くらいのものが売られていたのですが、色がちょっと部屋に合わなかったのと、もう少し安くて満足できるものがあるのでは、と思ったからです。その結果、1800円くらいで悔いのないものを見つけることができました。というわけで、こだわりを捨てた生活はそれなりにうまく行っていると言えると思います。
 次に、なぜ私が「いいものを持つ」ことが好きなのか、ということを考えてみたところ、思い当たる原因が二つ見つかりました。一つは、幸田文の『闘』です。サナトリウムが舞台となっている小説なのですが、そこに、「東大を出て一流会社に勤める二人」が入院してきます。この二人は、暮らしの隅々までお金が潤沢であることを感じさせる、という描かれ方をしていて、病室に持ち込むコップが切子硝子だ、などと描写されています。ここを読んで、隅々まで「いいもの」を持つというのは素敵だ、と思いました。もう一つが、草柳大蔵のエッセイです。もう手元に本がないので、タイトルがあやふやなのですが、名品を紹介するもので、たとえば「ジノリは白」「高温で焼かれた、カリッとした陶器」というような書き方でその品のいいところが挙げられていました。これも、読んでいて気持ちのいい本で、「いいものはいい!」と思わされたのでした。
 しかし、本当の「目利き」とは、値段というものを外して「いい!」と感じられるセンスを持っている人のことを指すのでしょう。白洲正子は100円ライターを愛用していたそうで、最初はちょっと意外な気もしたのですが、安かろうが高かろうが「これが好き」「ここにはこれがいい」と信念をもって選べることが大切なのではないか、などと思う次第です。


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