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ある老人の人生録―詳細編⑤

※「ある老人の人生録―『私の強運』詳細編④」の続編です。
※一部読みにくい箇所もありますが、原文に忠実にしています。
※判読不能な箇所は「?」と表記しています。
※祖父の記憶違い、私の誤読による間違いはご容赦ください。

昭和20年8月〜63年11月10日(23才〜66才:千葉〜熊本)

 そうこうして一か月くらいしたら(八月上旬)新大迫撃砲が出来たので、千葉県四街道の陸軍砲兵学校へ研修を命ぜられ、直ちに向かったが、千葉市で交通の便が空襲で全くなく、やっと軍のトラックを止め、四街道方面へ行くと言うので、荷台に乗せてもらったが、そこには二人の遺体が乗っていた。近くの防空哨に居た兵が、米機にやられたそうだ。でもそのまま乗って学校へ行った。

 食事はまずかった。飯は米に少々大豆が混じったもの。ただ新型大口経迫撃砲はあったが、何分重く、しかも運搬は輪重の車に縄でしばりつけ人力で引く。これには驚いた。一発打ったらおしまい。米軍の砲撃で一たまりもないことは判っているが、こんなもんでと言う気持で八月十四日研修終了したが、その終了式の最中に、米機の機銃掃討をくらい、第一番に檀上の校長が逃げたのは笑い話にもならない。

 帰福の途中はよく記憶にないが、名古屋の前で終戦になるらしいと、汽車の海軍の士官から聞いたが、十五日名古屋駅に乗替に行った時、フォームで中学生らしい女子達が座りこんで頭を下げ泣いているのを見て、本当だったなあと、別に確かめもせず、とにかく熊本へこのまま真直帰るんだと心に決め、南下した。そして熊本へ。博多の部隊の事なんか頭になかった。

 とにかく横手の家に帰ったが、風評で鹿児島方面の部隊がトラックやなんかで、どんどん逃げているそうだと聞き、当時の軍隊として兵達の逃亡の罪は当然上官も負うべきであったので、直ちに金武の部隊へ帰った(八月十八日頃)が、まだ福岡まではそんな状態ではなかったし、終戦の詳報もない様であったので、一安心。落ち着いた毎日だった。復員列車計画も立てられ、近隣の部隊も続々と博多駅へ、持てるだけ背負えるだけの軍物資を持って行ったが、列車は体一人分だけの余裕しかなく、全員帰りたい一心で、すべての物資を山の様に駅頭に捨てていた。その物資を、朝鮮人の人々が荷車等で驚く程の品物を持ち去っていたのを目にして、その後の鮮人の活躍が現在にも残っているが、あの頃が原点であったと思われる。

 まだ私の部隊が復員前に台風があり、室見川が出水し、ただ部隊には兵器はなかったが、手榴弾だけは数百発あったので、兵(勿論召集兵で、鉄砲一発も打った事がない人ばかり)に、貴様達、わざわざ軍隊に来たのだから、手榴弾を一発づつ投げさせてやると言って、全部を室見川の右岸の土手の蔭から、要領を教え、川に投げさせた。見事全数成功したが、しばらくすると川魚が浮いてくるわ、見事に気絶して浮き上がってきた。それっと下の方で、平網などはなく、手でつかみどりしたが、気絶が多いので、中々とれにくかったが、人数も多かったので、大だらい一杯の収穫。夕食に特別料理を作らせ、私達上官は兵を朝鮮部落へ行かせて、マッカリを仕入れて来させたが、私にはすっぱくてあまりうまいとは思わなかったが、好きな者は竹かんぽの食器でぐいぐいやっていた。

 そうこうしている間、九月十日頃、下士官以下全員復員計画による列車で帰熊させ、本部(隣村の脇山に本部と部隊長が居た。勿論本部は大きなお寺)の経理将校と国民学校駐屯中の損害、硝子一枚も補償し、その上に高額の補償金と残った米等も村へ差し上げ(終戦処理費は莫大だったらしい事は、連日経理将校が博多からトランクに現金を一杯つめて持って来ていたのは知っていたが、村学校への高額の補償支払は良くやったものだと感心したのは覚えている。

 二十年九月十五日、終戦一ヶ月目に、部隊長以下将校全員博多より夫々御里あるいは、自分の目指す地へと別れた。前日の十四日夕方、私以下、見習士官六名程(学校は卒業したが、外地へは行けず、内地部隊に全部配属になり、あまり多いので一室に居住させた)が、金武の区長の家で、送別会を開いてくれ、学校の先生、殆どが女教師であったが、その席で区長が、皆さんの軍刀は、私が壁に塗り込んで、九州独立に役に立てますから是非にと言うので、博多の駅に行けば米軍に軍刀を取り上げられてしまうので、お願いしますと差し上げて帰った。その後どうなったか。

  数十年後(四十三年後、昭和六三年一一月十日)金武校を訪ね、校長と会いお話をしたが、部落の田園はすべて大団地の街になっていたが、室見川左岸の役場は建て替わってはいたが、同位置、学校も改築されてはいたが昔の面影を保ち、竹林もあった。  

(完)

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