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ある老人の人生録―「私の強運」詳細編②

※「ある老人の人生録―『私の強運』詳細編①」の続編です。
※一部読みにくい箇所もありますが、原文に忠実にしています。
※判読不能な箇所は「?」と表記しています。
※祖父の記憶違い、私の誤読による間違いはご容赦ください。

昭和19年2月19日〜19年8月22日(21才〜22才:前橋・樺太時代)

 二月十九日第一の幸運が起こる。遼陽の原隊が戦況により、南方派遣でグアム島へ移駐し、士官学校中隊長よりI君と二人、書類上のみで満州東北ムーリンの歩兵十九連隊へ転属命令を受けた。その部隊も二十年六月二三日沖縄で玉砕した。 

 十九年四月、士官学校編成変更(特幹のためか)のため、私達は群馬県前橋陸軍予備士官学校へ転校となり、八月十五日卒業まで、辛くはあったが榛名山、榛名湖、伊香保、??浄雪で有名な髙田、野沢湖、赤倉、安中(母の生地)、妙義山と、演習で馬と大砲を引いての生活ではあったが、一面心に残る暖かい旅として経験した。

 昭和十九年八月十五日、士官学校卒業式があり、各々出身原隊へ帰属するのが原則であるが、殆どが関東軍出身で、すでに日本は戦況不利で入隊時の部隊も殆ど南方その他へ移り、海外への船便も危険で出来ず、それぞれ転属命令を受けた。私とIは、北部軍の札幌の月寒の軍司令部へ行けと命ぜられたので出頭した。そこで見習士官を命ぜられ、将校勤務となる。そして樺太上敷香の歩兵二五連隊に転属となった。前に仙台で転属になったムーリンの部隊は既に沖縄へ移駐していたが、この部隊も二十年六月二三日には沖縄戦終了で玉砕と報ぜられた。

 一九年八月二十二日、前橋より一週間目に樺太上敷香に着任。ソ連国境警備勤務を命ぜられた。大泊より国境まで列車は一路線が北上しているだけ。ツンドラ上の線路のため、夏は上部がゆるんで船のように上下左右によくゆれた。冬期は反対でがちがちに凍って揺れも全くなく、車両は豊富な石炭でルンペンストーブがごうごうと燃える暖かい車両で、人々は自分達で適当にストーブに投げ入れていた。列車の速度はあるので、煙突の引きも良く、よく燃えていた。今でもその暖かさ、ちょっと熱いような肌の感じが残っている快適な列車であった。

 当時樺太には歩兵は二ヶ連隊があったが、I君はもっと国境近くの気?にあった部隊に配属となって別れた(彼は終戦後シベリヤ抑留後帰国した)。部隊生活はソ連と平和条約があり、米ソ両面戦争をさけるためか、全く演習もなく、日本軍はなりをひそめる形で過ごしていた。私の部隊は交替で海豹島の整備についていたらしく、私の配属時には中隊長はその方に行っていた。只連日馬の手入れと大砲みがきだけは一生懸命兵隊はやっていたが、私等将校は暇なものだった。

 夕食後は毎日街といっても何百人地方の人が居たか知らないが、小さな街で、でも映画館も一つあったし、今思うと、米国の西部劇に出る街の横に板の歩道があり、それに付けて所々にバーみたいな酒呑屋があったりした街でした。 私はよく友人と酒場で、勿論小さなテーブルだけで女性もそばには居らず、注文したら持ってくる形式で、当時オットホルと言うウィスキーみたいなものをよく飲んだ。小さなコップにオットセイの睾丸のエキスが入っている茶色っぽい飲み物だった。

 日本料理屋風のは、私達見習士官が知る限りは一軒だけはあったが、土間にテーブルという風だった。冬期になると、雪のためスキーが無くては、例の街の板ばりの通路は歩けぬので、見習士官の権限で消灯後、営庭でスキーの練習を始めたが、スキー靴も革製の主流なものを用意してくれたが、平地滑走は二日目には出来る様になったが、それ以上傾斜があると全くお手上げだった。  

(以下、次号へ続く)

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