見出し画像

ポジー/最も好きだった馬

途中10年ほど競馬から少し距離を置いた時期もありましたが、最低でも有馬記念やPOGで競馬との縁は完全に切ることなく今日まで来ましたので、「競馬歴は?」と問われると「1994年からの28年間」と言うことはできるであろうワタシ。

そのワタシが28年間の競馬歴で最も好きだった馬は、ポジー号です。

ポジー Posy (JPN) 牝馬 1990/03/10 - 2016/12/13(26歳没)
父ヤマニンスキー 母スプリングシャトー(母の父シャトーゲイ)
国内39戦9勝(中央39戦9勝、地方0戦0勝) 海外(出走歴無し)
主な勝鞍 神無月S OP(1995年) UHB杯OP(1995年)

JBISサーチ https://www.jbis.or.jp/horse/0000229348/

初めての競馬場での出会い

正確な日付の再確認は最近になってnetkeiba.comで行いましたが、ワタシが初めて馬券を買ったのは1994年4月17日(日)@阪神競馬場。競馬好きの友人に連れられて初めて競馬場に行った時でした。

その日の東(中山)のメインレースはナリタブライアンが勝った皐月賞、阪神のメインはインターマイウェイが勝った陽春S(OP)でしたが、正直その東西メインのことはあまり覚えていません。

ナリタブライアンの一冠目を覚えていないとは何事か!?」とお叱りを受けそうですが、まだその時は競馬に興味を持ち始めたばかりなので皐月賞の重みもあまりよく分かっておらず、ましてやOP特別の位置付けなんて分かる由もありません。

でも何故その日付が特定できたのかと言うと、それは阪神準メインの梅田S(1500万下)に出走していた、シンプルな馬名の「ポジー」号がなんか気になって、単勝を買ったからです(結果は16頭中9着)。あと、その日の阪神2R 4歳未勝利でウインシーザーの複勝が当たってビギナーズラックを果たし、9Rれんげ賞(500万下)でスターマンが勝ったのを覚えていたのもその一因です。

単なるダート馬ではない!?

ポジーはその後900万下に降級してから2連勝し、1500万下に復帰。次に競馬場で会ったのは阪神・淡路大震災の影響で京都開催となった翌年(1995年)の梅田Sだったと思います。彼女はそこを見事に勝ってOP入りし、その後芝コースである1995年UHB杯OPを含むOP特別を3つも勝って挑んだのは何と第112回天皇賞・秋。あのナリタブライアンが12着に沈み、サクラチトセオーが勝ったレースです。

天皇賞・秋での大激走!(1995年)

ナリタブライアンの1番人気を前にして、さすがに単勝はムリだよね。

まぁ芝はそこそこ走れていたし、距離適性(1800-2000m)はバッチリ。でも基本はダート馬なので、さすがに複勝を買って応援するのが精一杯でしたが、最後の直線はサクラチトセオーにも負けない脚色でグングンと伸び、なんと5着に入着

あのナリタブライアンが馬群に沈んでいく姿は観ていて辛かったですが、馬場の内側から力強く上がってくる赤い帽子・6番ポジーの姿に大興奮。あと20m長ければ3着はあったのでは?という、彼女にとって一世一代の大好走だったと思いますし、ワタシにとっても一生忘れられないレースです。

大激走の後

天皇賞・秋の後は7歳までの2年間、どちらかと言うと芝中距離を中心に走りましたが1996年UHB杯OPで2着に入ったのが最高で、1997年UHB杯OPを最後に引退しました。それにしても、この記事では「UHB杯」が3回も出てきましたし、巴賞・漁火Sにも計3回出走など函館とも縁のある馬でしたね。

産駒たちは・・・?

引退後22歳までの14年間で12頭の産駒が生まれ、仔出しの良かったポジーですが、2番仔レイ(牝、父サクラバクシンオー)の中央3勝(1000万下)、3番仔ウインルーチェ(牝、父サクラローレル)の地方11勝(金沢B2級)ぐらいしか活躍馬を出せませんでした。そして彼女の血統はレイの4頭の仔で止まってしまいました。

地味で少し変わった名牝

ダートでOPにまで上り詰めた後、芝にも二刀流で挑戦して1勝し、天皇賞・秋で入着、通算で9勝もしたポジーはちょっと地味ではありますが珍しいキャリアを持った、しかし間違いなく名牝の1頭であると思います(贔屓目大いに含む)。

もう彼女の血を継ぐ馬を見ることはできませんが、彼女を応援し続けて楽しかった日々を、いつまでもこの胸に留めておきたいと思います。皆さまにもこういった馬っていますよね?

今回もご精読ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?