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『イエスはなぜ十字架への道を歩んだのか』

マルコ福音書10章35~45節


習字と書道

 普段、働いている「からし種」の事業所まで、バスで通っています。バスでだいたい座る場所は決まっています。走行方向へ向かって右側、つまり車道側の後ろの方の窓側の席に座っています。そして毎日、ある学習塾の前を通ります。そこには、窓に印刷した大きな文字で、算数教室、英語教室、と書いてあって、もう一つ、習字教室と書いてあります。

 私としては、それが気になって気になって仕方がないのですよね。そして、妄想というか、ある想像を膨らませるんですね。たしかに「習字教室」というのはあります。そして「書道教室」というものもあります。そして、そういえば、学校では「習字の授業」「書道の授業」というのもあります。しかし、ちょっとうまくいかない場合もあるなあ、と思うのです。

 例えば、習字というのは、書いて字のごとく、まさに「習うもの」ですよね。しかし、「書道を習う」というかもしれないですけど、ちょっと違うかもしれない。また、「書道」は極めるもの、また嗜むものとかもしれません。が、「習字」を極める、嗜むものとは、なかなか言わない、と。墨を硯で溶いた液体を筆の先に含ませ、それを白い半紙に字を書く行為。同じ事柄を指していながら、「習字」と「書道」、微妙に違うよな、と。

 これらの違い、根本的にどこにあるのか?と考えてみたら、やっぱり習字はどこか受け身的なもの、与えられるもの、書道は自主的なもの、自らの思いでやっていくもの、という要素が大きいのではないか、と思うのです。

 今日の聖書箇所において、使徒のうちの2人、ヤコブとヨハネは、イエスに対して、このように願っております。10章37節。

「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

 ヤコブとヨハネ、いうなれば、習字のようなものかな、と感じます。自分がなりたい存在に、イエスによって導いてもらおうとしている。しかし、イエスは違う道を歩もうとしている。また、イエスが使徒たち、弟子たちに求めていたのは、自らの足で歩んでいくこと、それぞれの道を極めること、いうなれば、書道の道を極めるようなあり方ではないか、と思うのです。


もしも、イエスが…

 これは想像ですが、弟子たちが理想とした未来が実現したら、どのような未来であったでしょうか。つまりイエス自身、逮捕されなかったとしたら、ユダヤ人の王となっていたら、という話です。まさに万が一、万に一つの可能性でイエスがユダヤ人の新しいメシア、つまりユダヤ人の王として、成功したとしたら、どうでしょうか?新しいユダヤ人の王として君臨し、12人の弟子たちは、それぞれ右大臣や左大臣、そして重要な地位、ポストを得たかもしれません。そして王として新しいユダヤの国を建造したでしょう。しかし、その栄光はあまり続かなかったのではないでしょうか。

 エルサレムへ入場した時に周囲の群衆の熱狂、彼らはイエスを王へと押し上げたかもしれません。しかし、その熱狂が継続していたら、ローマ帝国からの独立を目指す運動を起こし、国内でその雰囲気を盛り上げていき、イエスを第二のダビデ王として持ち上げて、ローマ帝国への独立戦争を仕掛けたかもしれません。そして、その結果、圧倒的なローマ帝国の武力によって、敗退していたでしょう。そして、ユダヤ人たちは歴史の中から消えていった、そしてイエスの存在を過去の歴史には残ったかもしれませんが、キリスト教は生まれなかったでしょう。ということは、キリスト教という私たちの救いとなる宗教またキリスト教会が立つためにはイエスが十字架への道を歩んだのは、必要なことであったとも言えるわけです。

 一方のイエス自身の思いは、どうであったでしょうか?どんな道を歩みたかったのか?そんな思いがあったのか、ゲッセマネの園において、主なる神に対して、イエスはこのように祈っています。マルコによる福音書14章36節。

「「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」」

 イエスは、主なる神に与えられた運命、十字架への道を歩むことに対して、「杯(さかずき)をわたしから取りのけてください」と祈り、自らの死への運命に対して、拒否の意思を示しています。しかし一方では、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、神の意思に従うという思いを明らかにしています。

 まさに、この祈りは、理想的な祈りと言えるのではないでしょうか。自らの思いとしては「こうなりたい!」という希望はある、しかし一方で神が自らに対して「こうなりなさい」という意思、御旨があるとするのであれば、それに従う、ということです。


弟子たちの裏切り

 イエスは王となる道ではなく、十字架への道を歩みました。弟子たちとしては、絶望したでしょう。彼らにとっての望むイエスの姿ではなく、また望む自らの姿が実現しない、または自分も犯罪者として扱われてしまう、また処刑されてしまうかも、と恐れたからでしょう。しかし一方で、キリスト教はイエスが十字架への道を歩み、その生涯を終えて、復活しなければ、始まらなかったと言えます。また、弟子たちが裏切ったという事実がなければイエスは十字架への道を歩まずにすんだかもしれない、と言えます。

 イエスを裏切った代表者として、イスカリオテのユダが思い出されます。イエスを銀貨三十枚(マタイによれば)で売り飛ばしたとされています。そしてマタイ福音書とルカ福音書には、また、ペトロにしても、他の弟子たちにしても、逃げ出してしまっており、イエスを裏切ったという点には、まったく変わりがないと言えます。あまりにユダを攻めるのは、不当なことと思えます。十二弟子の誰もが同じくらい悪く、イエスの死に関して罪があると考えるのが妥当なのではないでしょうか。


こうなりたい自分とありのままの姿

 わたしたちの信仰というのは、今のままではダメで、「変わらなければならない」「こんなふうになりたい」という思いと、このままで良い、という間で常に戦っているのではないか、と思うのです。そして今日の箇所における弟子たちは、今のままではダメだ、「こうなりたい!」そして、イエスが王になる時には、自分は誰にも尊敬されるような存在になるんだ、と考えていたことでしょう。

 しかし実際のイエスの姿、イエスの歩んだ道は違っていたわけです。また弟子たちの姿も弟子たちにとって理想的な姿とは言えなかったでしょう。イエスがゲッセマネの園で逮捕された時は逃げてしまい、裁判の場面、ペトロは仲間だと疑われてイエスのことを知らない、と言っていました。また、ユダはイエスを裏切り、彼の居場所を大祭司に知らせてしまいました。どちらもが、自らの意思のなんらかの実現のための行動であったと言えます。今日の箇所のヤコブとヨハネの願いもそうです。

 今日の聖書の箇所10章37節をお読みします。

「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

 右大臣、左大臣になりたい、という願い、その立場になって何をするか、ということは問題にはなっていないわけです。ただ立場を得ようとしている。そして文字通り、イエスは答えています。10章38節。

「10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」」

 イエスが言う、「このわたしが飲む杯」「このわたしが受ける洗礼」とは、立場の話ではないわけです。イエスの側としては、立場の話、何になるか、という話をしているわけではないのです。ただ、何をするか?どのような歩みを歩むのか、イエスの意思としては、そこにあったわけです。また、これは預言であるとも言われています。十二弟子たちのその後の歩みは、別に順風満帆のものではありませんでした。たしかに、教会の歴史のはじめ、最初の一歩を踏んだ彼らではありましたが、同時に苦難にも満ちたものでした。要するに、「私が十字架にかかるように、あなたがたも苦難を受ける時がやがて来る」という言葉でもあるとも言えるのです。


イエスはなぜ十字架への道を歩んだのか

 イエスは、どんな思いで十字架への道を歩んだのでしょうか?イエス自身、いつか自分の活動は破滅する、どこかで破綻がやってくると考えていたと私は感じています。マルコ福音書には、受難予告と呼ばれるイエス自身が逮捕されて、処刑されるという未来について語っている箇所が三箇所あります。最後の三回目のものは、今日の箇所の直前に収められています。そして弟子たちはその言葉を否定しようとします。しかしイエスはそれを叱ったりもしています。イエスは、こんなふうに考えていたのではないでしょうか。弟子たちも周囲のユダヤ人たち、群衆と呼ばれた人々、イエスを救い主、メシアとして持ち上げる人々、メシアとして付き従おうとしていた人々、そうした彼女ら、彼らの思いによって、自分はメシアとして持ち上げられる。しかし計画は崩壊し、自分は死ななければならない、と。

 弟子たちがイエスを持ち上げようとする思い、それが自分を死に至らしめる、十字架への道を歩ませるのだ、そんなふうに考えていたのではないでしょうか。そして、今日の箇所の最後でも同じように語られておられます。マルコによる福音書10章45節。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 「身代金」という言葉があります。「リトローン」というギリシャ語なのですが、もともとは奴隷を買い戻すためのお金を指す言葉でした。弟子たちや私たちの罪の結果、イエスは十字架への道を歩まざるを得なかったのだ、と。私たちの罪をチャラにするために、イエスは十字架への道を歩んだのだ、と。

 そして、イエスを持ち上げようとする思い、それによってイエスは十字架への道を歩まざるを得なかった、と。弟子たちや周囲の人々が、イエスをメシア(ユダヤ人の王)にしたいとする思いが、イエスに十字架への道を歩ませ、イエスをメシア(ユダヤ人の王)ではなく、キリスト(この世の救い主)にしたのだ。そんなふうに言えるのではないでしょうか。


なぜこんなに面倒くさい伝え方を

 よくよく思うことがあります。神さまは、なぜ、このようなめんどくさい形で意思を示そうとしたのか?と。単純に、神さまが全能であるとするならば、すべての人がイエス様のことを信じるようにすれば良かったのに、弟子たちもイエスの意思をすぐに分かるようにプログラムすればよかったのに、と。しかし、そんなふうにはなっていないわけです。なぜでしょうか?神さまの意地悪でしょうか。ひどい神さまです。しかし、そうではないでしょう。

 多分、神様は、人の本当の意味での愛を知ってほしかったのではないでしょうか。自分の分身であるイエスを捧げるほどに大切にしているんだよ、と。また同時に、誰かを犠牲にすることは、とてつもなく罪深いことなんだよ、と伝えたかったからではないでしょうか。あなたがたは、そんなことを繰り返さないように歩んでいきなさい、という思いをもって、イエスに十字架への道を歩ませたのではないでしょうか。

 受難節の日々を過ごしております。イエスが十字架への道を歩んだのは、私たちの罪のためでありました。そして、私たちの無理解ゆえに十字架への道を歩みました。私たちは、イエスに対して常に、栄光のメシアの姿を求めます。しかし、実際のイエスは十字架への道を歩んだキリストでした。10章45節をもう一度、お読みします。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 イエスは、メシアとして(人々から)仕えられるためではなく、キリストとして(人々に)仕えるために、この世に現れました。このことを改めて、心に刻んで、受難節の日々を過ごしたいと思います。
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