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3/5 夢見る力を鍛える夢トレ

おはようございます。
数日前、衝撃的な夢を見ました。
河合先生が「僕はほんとうのことは書きませんよ」と言っておられたので、今回ワタシも見た夢の内容を伏せますけど。
あんまり衝撃的だったので、「あらら~、あらら~」と思いながら、あれこれ考え、「あ、そういうことか!」と自分なりの落とし込みができたのは2日後。

その晩から河合隼雄『明恵 夢を生きる』を読み返しています。
鎌倉後期の高僧明恵(みょうえ)は40年間にわたって、夢の記録を残しています。夢の内容だけでなく明恵自身の解釈も書かれている。深層心理學者の河合先生から見ても、明恵の解釈は独特で、夢に対する深い理解と、さらにそれを実生活に生かす実践力があったと感服されている。
ちなみに河合先生は明恵のことを、こんなふうにも言っている。
「日本人で初めて師と呼べる人物に巡り合ったように思えた」

さて、先の衝撃夢とこの本を読み出したことはガッツリつながっていた。
読むうちにそのシンクロニシティに興奮してしまったほどです。
案外、じぶんは夢を生きてるかも……。

本文中でピンときた言葉です。
ある程度の修練や努力なしに、意味深い夢を見ることはむずかしい
コレはたしかにそうで、2006年から1日も欠かさす書いているブログのカテゴリーに「夢の記」があります。読み返しても夢の話をよく書いている。
たしか学生時代に飛ぶ夢あたりから夢に興味を持ち始めて、夢の不思議さ、面白さに惹かれていた。40代の数年間、夢日記をつけていて、それ以降夢の記憶が鮮明になったのです。連続した夢も見れるし、夢で匂いを感じることもある。夢に対して常にオープンなじぶん。若いころによく見た金縛りや怖い夢というのは徐々に減っていきました。
「夢は見てると思うけど覚えていない」という人は多い。
でも、そういう人は夢の必然性がないんでしょうね。だから、覚えてなくても全然かまわない。ワタシは夢に興味があるから、夢に積極的に近づいて行った結果、夢見力がついたと思います。

夢を見る人の夢に対する態度によって、夢そのものも変化してくる
正夢か否か」というレベルで夢をとらえるのはあまりにも浅薄。
「夢はたいてい変化球でくる」というのがワタシの考え方で、ワタシレベルではその通りになんかなりません。それでも強く願っている事柄に関しては、なんらかのサインは出してくれる(ような氣がする)。
大事なのは夢の運河を作り続けることでしょうか。
「夢なんて何の役にも立たない」とせず、「なぜ夢があるのか。その存在の意味はなにか」を探る。そういう態度でいると、夢子ちゃんのほうでも近寄って来る。猫と同じですね。向こうから近づいてくるまで黙って静かに待つ。「あなたに興味があります」って態度。「あなたが出してくるサインを分かりたい」という姿勢。じぶんのなかの夢子ちゃんに語りかける。
夢子ちゃんは氣まぐれですが、たまにリクエストに応えてくれたりもする。

夢の中に自分が登場していないときは、その人の自我がそれにあまり関与していない
コレ、夢の中で、自分がいるとき、いないとき。ワタシの場合はたいてい自分が登場して、それも今の自分とときと若いころの自分のときがある。
ですから、夢でも自我と関係しているんでしょうね。あるいはまだ自我と関与しない夢を見るレベルに到達していないのか。
そうそう、夢は自我を補償する働きがあるんだそうです。
「補償」とは、ユング的には「なんらかの意味で他の一面的な存在を補う働きを持っているが、それは必ずしも完全になることを意味していず、その存在にとっては受け入れやすい特徴を持つ」だそうです。簡単に言うと「ある夢を見るということは、そのことが自我とある程度近いということも示している」。夢によってある程度、その人の意識のありようを推察できるし、意識がある水準に達していなかったら、ある種の夢は見られない。

コレを読んで、これまでのワタシは無防備に夢の話を書いてきたことに氣づき、「ひゃー」となったのであります。
まさに、衝撃的な夢はこのことを指していたように思いました。

あんまり馬鹿正直にものを書くのも、ものを言うのもたいがいにしなさい、と。
ウソは常備薬、真実は劇薬。

いやはや恐るべし夢、かつ頼もしい助っ人夢子ちゃん。

この書棚はすべて河合隼雄本。

ではでは今日もご機嫌元氣な1日でありますよう。


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