見出し画像

3/3  河合隼雄と中沢新一の対話『ブッダの夢』

おはようございます。
この本を読むのはもう何度目でしょう、赤線が引いてあり、書き込みがしてあり、付箋が貼ってある。

ツバメノートに抜き書きをする習慣が定着しましました。

昨夜は、おふたりが賢治の作品について語っている部分での発見がありました。
賢治の作品を多くの日本人はセンチメンタルに読んでしまうか、「分からない」となってしまう。それはなぜか、ということです。
ワタシ自身、賢治は教科書から入ったせいだと思うんですが、頭っから道徳的な押し付けに感じてしまい生理的に受け付けなかったんですね。もっと身近にあるものとして読み始めていれば違ったと思いますが……。結果今出会えたんだからよしとしましょう。

日本人のジメジメ、べたーとした人付き合いは風土や自然環境に根差したものと考えられる。そして、反省好きで心配性な国民性。「おかぁちゃん大好き」文化も土台にある。だから、賢治の読み方も自ずと、悲しさ、真面目、耐えるみたいな部分ばかりに目が向いてしまうんですね。
でも、賢治ってよくよく読むと、お茶目で新しもの好きで、好きなことにまっしぐらで、楽しい部分がたんとある。最近読んでいて、賢治は悲しみを突き抜けた先を見ていたように感じる。
そんなことを想っていたら、この部分に出会ったのです。

p.65 中沢新一の言葉
観音様が観音様になる前は「常泣菩薩」って言われていました。 いつも泣いている 菩薩さんです。いつも泣いている 菩薩がいて、なぜ泣いているのかと言うと、 世界を見ると 生き物を見ても悲しくて悲しくてしょうがない。 どんなちっちゃな生き物でも、みんな苦しみを背負っているのを見て悲しくてしょうがないから、泣いてばっかりいた菩薩様がいて、 それが次の転生を果たした時に、観音様になるわけです 。

 悲しみが極限まで来た時 、彼は ポーンと飛んで、 今度は観音の「非情の悲しみ」に達する 。その時 観音様の「慈悲」というのが完成する。
常泣菩薩の時は「あー悲しい」と言って、無力なんです。ところが、 僕はここが賢治の科学と関係してくると思うけど 、観音様になった時に 、千手観音になるわけです。 つまり 千の手を持って、 つまり 技術を持つわけですね 。技術を持って 実践に移っていくわけです 。「非情な 悲しみ」、 まあ これが 慈悲と言われている、ものを持つようになってあの千の手を持ち、千の目を持ったものになっていく。 賢治の科学ってこういうこととも関係しているのかな と思います 。

あぁ、そうか、賢治も常泣菩薩から観音様になったんだな、と納得しました。その根底に科学者の視点を捨てなかったというのがあります、きっと。
慈悲のこころを持ちつつ、科学者としての知識を活かそうとした。
センチメンタルなお話になってしまうところを、科学者賢治がカラリと描くことで物語に普遍性が生まれる。

おそらく日本人には「常泣菩薩」タイプが多いのだと思います。
ただ泣いている。
すごく割り切った言い方をすれば、いいヒトだけどなんの解決にもならない。
安達祐実なら「同情するなら金をくれ」なんだけど、実際には「かわいそうに」というだけで行動にはつながらない。
真剣に考えて、考えて、もがいていったら、その先に突き抜けて、なんらかの手段や光が見えてくる、と。
賢治はそれを具体的には書かなかったけれど、「空にちらばろう」と言ったのではないかしらん。
この「散らばる」って父性ですからね。
母性を突き抜けて、父性を実践することで、新しい展開がひらける。
そんな感じでしょうか。
たぶん大切なのは「悲しい」で終わらないことです。
もちろん前提として、悲しみを味わい尽くすことがある。
観音は悲しみの果てにあるだと思います、はい。

毎日、何の予定もなく、こういうことをぽやーんと考えていられることはなんとありがたいことでしょう。
ということで、今日もご機嫌元氣な1日にしましょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?