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5/30 河合隼雄『幸福論』『読む力・聴く力』

おはようございます。
河合本、付箋を付けた部分を、万年筆でツバメノートに書き写すルーティンを続けています。そうした言葉たちは、このNOTEでアウトプットし、さらにオンラインサロンでも使っています。
ところが、幾度となく反芻しても、依然身に付かない方が多い、トホホ……。
それでもめげずにやります。
「分からないから面白い」ように、「身に付かないなら、身に付くまでとことん付き合う」です。仕事をしていたころはこんな余裕はなかったけれど、今はたっぷりの時間があります。今こそ學びどき。

『幸福論』から抜粋
・最愛の人や 最大の恩人を失う悲しみは、それをもろに受けると、人間はなかなか立ち上げれない。それを防ぐために、無意識的な防衛作用が起こって全く些細なことに氣を取られるものと思われる。ともかく 悲しみの感情からは絶縁されるようにして、 一応 守られておいて、 その後に時間とともに悲しみは 徐々にやってくる。 そのようにしてこそ人間は深い悲しみを体験しつつ 、それに耐えられるのではなかろうか 。
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猫が旅立ったとき、ワタシは無闇に掃除をしたり、常備菜づくりをしたりする。からだを動かしていないといられなくなる。埋葬などが終わり、しばらくしてから、ふと「あぁ、もういないんだな」と氣づく。いつの間にか日常生活を送れているじぶんを発見する。
ひとつとして同じパターンはない。
喪失感から身を守る術は毎回違う。そりゃそうだ、オノレも年を取って変化を続けているのだから。

・人間というのは 、何か調子が良くて上昇傾向にある時は、手放しで上昇してしまって浮ついたことになりがちである。 どれほど上昇しても、それをしっかりと支えるためには何らかの不幸がそれに伴って生じていないといけない。 高い位置と低い位置との間に存在する ある種の緊張が、高いものを支え、 厚みを与えるのだ。
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「倖せ」を感じるとき、この感覚は深い悲しみがあってこそ、と思えるようになった。こういう考え方をできるようになるから、年は取ってみるものだ。 

・幸福は 目標として求められると危ういものであって、 むしろ 副次的についてくる。
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「幸福はハウツーではない」という言葉を、先日オンラインサロンで語り合ったところ。漠然とした幸福は絵に描いた餅なのだ。「なりたい」と思うものではなく、感じるものなのだ、たぶん。そして、それは瞬間的、刹那的で決して長続きしないもの。もし「今倖せ」と思ったら、いつかそれは終わると覚悟すべきだ。だからこそ尊い。

昨日の福吉海岸

『読む力・聴く力』から抜粋

「聞く」というのは基本的には、外からの音の波として鼓膜にたどり着いた音を物理的に聞く。それを電気信号に変える、そこまでの 音の波に乗っかった情報を聞き取るという意味での「聞く」ですが。 それが今度は その情報が脳にたどり着いた時に「わかる」という意味での「聴く」になる。 つまり 単に耳で聞くのと、頭で聴くの違いは、そこにある。(立花 隆)
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「聴く」は「わかる」(アンタンデュ)なんですね。
「聞く」と「聴く」の違いがハッキリしました。
理解できると、漢字の使い方が変わります、ちょっとだけ賢くなるような感覚。
「読む」も最初は目で「見る」だけで、脳に行って「わかる」状態になって「読む」に至る、とそういうことですね。
ってことは、ワタシの場合、ほとんどの読書は「本を見ていた」だけになるのか、ガーン。一瞬分かっても、次の瞬間忘れている、こういう場合はなんというのかしらん? うーん、言葉はムズカシイ。同時に言葉には限界がある。言葉を超えた「なにか」に絶えずゆすぶられているようにも思う。
余談ですが、今見ているネットフリックスドラマ「The OA」という作品は臨死体験を扱っていて、まさに説明不可能な領域の話を見事に映像化していてグイグイ惹き込まれます。
そーか、言葉にならないところから芸術が生まれるのだな、とか、
ちぃちぃの前世はドドだったのではないか?
とか、いろんなことを考えます。

ちょっとひんやりの朝、今日もご機嫌元氣な1日にしましょう。


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