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6/28 河合隼雄『物語を生きる』から

おはようございます。
昨夜の夢で、室内から美しい庭を観ました。もっと見続けていたいと思ったところで、猫がゲコゲコ吐く音で現実に呼び戻された、無念。

さて、目覚めてしまったので、河合先生の本を読むことに。
この本、ちゃんと索引も付いている研究論文で、ときどきワタシの無知ゆえついていけない部分もありますが、何度か読んでいるうちに「はぁ、そうゆことだったのか~」となるところも。
いくつか抜き書きしましょう。
「消え去る美」の章で『かぐや姫』について考証されています。

この世に生まれたものは必ず死ぬわけだから、 その死を受け入れることが、美の体験の前提条件であるとも言えないだろうか。 花は散ることを、 月は欠けることを前提としてこそ、そこに美を認めることができる。
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ふと、倖せの絶頂で結婚することの愚かさを思いました。本来結婚制度は「貧困」「病」「老い」などを乗り切るための最小ユニットと考えるべき、という説があり、ショローはコレに大いに賛成します。
若いころの勘違いを「テヘッ」と笑うしかない。そりゃ離婚するわけだな、としみじみ思うのであります。
死に向かう老いの過程こそ二人三脚の支え合いが大事。
そうだよなぁ、でもワタシはひとり暮らしが超絶快適~、いまさらだれかと暮らすなんてできないわ。
人生はすでに下り坂、せいぜい見苦しくないように心がけませう。
花は散り、月は欠けてこそ、ですよね。
やがて枯れる、消えていくということ、その引き際が美意識ともいえるのではないでしょうか。

 うつろう美を特に評価している、というよりも、 この世ならぬ美を追求すると、 それは限りなく死に近接していく。 つまり 美の影には死が必ず存在しており、 それは移ろいゆくことの自覚を促すものとなる 。
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完成した途端、死の影が忍び寄って来る、と思って間違いない。
それもひっくるめて受け入れる度量が試される。
「たましい」を磨こう。

美は単なる美である限り、 それほどの魅力を持たないのではないだろうか。どこかで醜による不思議な裏付けを持ってはじめて、人を惹きつけることを可能にする。 かぐや姫が自分で醜いと言ったのは 謙遜ではなくて、自分の醜の側面についての自覚があったからとも考えられる。
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かぐや姫は求婚してくる男性たちに無理難題を突き付け、帝の要望もはねつけて、月に還ってしまう。コレが傲慢さからではなかったのですね。
たしかに真に美しいヒトって、オノレの容貌がヒトを惹きつけるということは知りつつ、どこか寂しそうですもんね。
他の本で、ものすごい美人のクライアントさんがいて「その人は幼いうちから性の対象として見られ、そのことが罪の意識となっていた」といった話も印象に残っています。なるほど、美人は美人なりの苦悩があったんだなぁ。
それに武田鉄矢氏がラジオで言ってましたが「美人ほど年取るとガクッと来るのな。その点美人じゃないヤツはさほど変わらない」説。これからワタシの時代だわ~、ワハハ。

漢字には「観る」という表現がある。 この観は「観照」であり、内を見るのと外を見るのとが同時に行われることを意味する字であった。男と女とが共生し、内と外との区別も定かでない時に「観る」美が2人を支えていた。 そのような関係においては 、「本性」 などという概念 さえ 存在しない。 その時に、相手を対象として自分から切り離してみると、「本性」が見え、それは醜につながってくる。 イザナミ、 豊玉姫 の場合も、このように考えていいだろう。
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イザナミも豊玉姫もそれぞれの夫に「絶対に見ないで」と言ったのに、彼らは禁を破って、本性を見てしまうんですね。結果、別れる。
「本性を見せないように努力する」というわけでない。
そもそもオノレの本性が分かっている人自体が少ないようにも思えるし。
たぶん、互いに向かい合っちゃうとダメなんじゃないかな。並んで同じ方向を向いているときは案外大丈夫。
とにかく明確化、個人化ってのを極力避ける。あいまいなまんま、コレ、日本人の得意技ですよ。
「よく話し合わない」「なんとなくいっしょにいる」くらいがいい。
ちゃんと話し合ったりしたらゼッタイ別れます。
人間関係も突き詰めたりせず「ぼんやり観る」、このくらいがいい。
ショローになると、この辺のさじ加減が少しずつできるようになる。
衰えていくばかりでなく、こんなふうに上達するものもあるから面白い。

タオちゃんも楽しみにしてね。

2歳のぴちぴち女子

ではでは、今日もご機嫌元氣に参りましょう。


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