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NPO法人ヴィータ「当事者主体的カウンセリングとは」感想

先日、NPO法人ヴィータの「当事者主体的カウンセリングとは」をアーカイブで見ました。
私がずっと疑問に思っていたことの答えが、いくつも明確に示された気がして、これは覚えておきたいという内容を、感想としてこちらに載せたいと思います。

NPO法人ヴィータは、発達障害の方々のために、広く深く、啓発活動をなさっている団体。
前に理事長のとらっちさんがおススメしていたセミナーが、素晴らしくて。
今回もとても推してくださっていたので、アーカイブで見ることにしました。

今回のセミナーの語り手は国重 浩一さんという、ナラティヴセラピーの本などを書かれている方で、未読ですが私の手元にもこの方の、「ナラティヴ・セラピー・ワークショップ」があります。



概念でしかない

アーカイブで最も印象に残ったのは、とらっちさんの質問に、国重 浩一さんが答える形式の部分でお話された内容でした。


オープンダイアローグのドキュメンタリーで監督が、
「誰かが一度、統合失調症になったら、ずっとそのままという前提ですが、あなたはそのように考えないんですか?」
と質問したのに、ケプロダス病院のスタッフは、
「そうです」
と、
「統合失調症というのは、単に何だかの名前だけなんです」

治療に取り組んでいる人たちは、統合失調症というものの実体はあるとは思っていないんだっていうことは、すごく大切だと思っています。

単に名前だと思っている人たちが、何かしらの違いを作り出せるんではないかと思っている。

統合失調症のような診断名の固定的なものは、もう、ないんだと。
概念なんだ。
説明概念でしかなくて、分類名なんだっていうことは、非常に重要なスタート地点だと、僕は思っています。


これは、私にとっては、とても大きな助けになるお話でした。

「概念でしかない」と、思っている人たちが、統合失調症の症状を示している人に対することで、何かが変わるのかもしれない。

上のお話は、講義の最後のほうに出てきたのですが、そこまでのお話が、非常に丁寧な形で、精神医療や支援の現場で使われる言葉の解釈について、ロジックについて、種明かしとされたいうのか、こんな風につくられていているから、気を付けないといけないよ、という風だったと私には感じられて。

だから余計に、上で言われている「概念でしかない」という言葉が刺さりました。

統合失調症とは、このようなものだ、と、専門的に知識を得ている人たちからすれば、クライアントが症状を示したら、病気のサインにしか見えません。

でも統合失調症は概念にすぎないという人たちからしたら、クライアントにどんな症状が出ようが、それは、その人の特質かもしれず、何か背景に理由があるかもしれない。それを、本人に聞いてみればいい。

もう一度書きますが、

統合失調症のような診断名の固定的なものは、もう、ないんだと。
概念なんだ。
説明概念でしかなくて、分類名なんだっていうことは、非常に重要なスタート地点だと、僕は思っています。

という一言に、私は大きくうなずきました。


薄い記述

ナラティヴセラピーのナラティヴは、物語。
物語で扱われるのは、言葉。
それを、大切に、丁寧に、繊細に、注意深く扱うことで、見えてくるものがあるのではと。

私が、noteにはじめにあげた「黒猫りんの物語世界」は、服薬の影響で認知症みたいになりながらも、必死に書いたものでしたが、ナラティヴセラピーというものがあることすら、知らない状態で書きあげました。
むしろオープンダイアローグやナラティヴセラピーは、二年前に知ったくらいで。

ショックから立ち直る過程で、私は、私の物語を、生き方を、再構成する必要性を強く感じていたんです。

もう何を感じて何をしても、誰にも信頼されないという、閉塞感。

それをぶち破るには、それでも私は生きていて、周りが何を言おうが、私は私だ。私は私を生きるんだ、と、強く想うことが必要でした。

どうしてそんな風に、感じていたのか。

今回の講義で語られた、「薄い記述」が大きく関わっている気がしています。

講義の内容を、私なりに書き出すと、


薄い記述とは。

あの人は、「●●だから、●●出身だから」などで、人を理解すること。

その人の豊かさ、多様性が抜けて行ってしまう。

誰がそういう、薄い記述を作るかというと、人々が生きているコミュニティや他の人々の人生を研究している、いわゆる外部の人々の「観察」によって到達されるものだとされている。

専門家が入っていき、当の本人の考え方や物の見方が、排除される。

その観察によって得られたものを検討し、文章化していく。そのような文章の位置づけは、研究結果として、そうとうの力を持つようになる。

さらに怖いのは、「当の行為を続けている人」が異論を挿むことができるのだろうかということ。

それはそういうことではないのです、と、当の本人が言ったとしても、その声を誰が受けとってくれるのか。

研究者が研究したもののほうが、この世の中では重みがある。


という感じで。
どうして、そうなるのか。

辛い、悲しい、痛い、本人の声は力を持たない。
研究者の研究のほうが、ずっと重みがある、なんて。

当事者になったことで、声を奪われた感覚は、強くあります。

私が、私として感じている物事は、他の事例と並列されて、消される。

「薄い記述」の反対は、「厚い記述」。


本人の解釈が、ちゃんとその場にある。

なんでそんなことをしているのか、なんでそれを今やっているのか。

その人たちがその人達の自分の言葉で説明できる。それをしている人の言葉を、表に出す。

外部の人たちや専門家が押し付けた解釈ではなく、その人自身の解釈がしっかりと提示されていることが大切。


とのこと。


分類名って、どういうこと


それから、もうひとつ講義で、これを知ったことで、私のなかの何かが覆った。と、思ったことを書き出しておきます。


精神科の診断名は「分類名」だということ。

診断名が癌ならば、医師は必ずがん細胞を見つける。
どんなに癌とにたような症状だろうと、がん細胞がみつからなければ、癌とは絶対に診断されない。
それが医療における「診断」

精神科疾患などの場合。
生物学的な異常が、精神疾患などの問題の主たる原因であるということについては決定的なエビデンスは何もあがっていない。

セロトニン仮説。
これが薬を作るうえで使われているけれど、この仮説にはなんのエビデンスもあがっていない。
エビデンスのない仮説に基づいて、薬が作られている。

では、何によって診断されているのか。

医師に対し、なんと自分のことを表現するか、どんな振る舞いをしているか。

これらがベースになっていると、何が問題になるかというと、医師が聞く内容によって、診断が違ってくるということ。

夜眠れるかと聞かれたら、眠れないことを話す。
会社で困っていますかと聞かれたら、会社で困っていることを話す。

何を訴えて、なにを伝えるのかは、何を聞かれるかで大きく違ってくる。

医師によって、診断名が異なるという現象がある。

精神科の診断名は、癌やコロナやインフルエンザのようなものとは、まったく異質のモノ。


以上が、

NPO法人ヴィータ
「当事者主体的カウンセリングとは」
国重 浩一さんのセミナーのアーカイブを見た感想でした。

NPO法人ヴィータさん、とらっちさん、国重 浩一さん、素晴らしい講座を、どうもありがとうございました!

NPO法人ヴィータのHP
特定非営利活動法人ヴィータ – 自分の特性をみつけて個人が活躍し、企業の生産性を上げるお手伝いをします。  (npovita.org)


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