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クソ人間やめる

 私はクソ人間だ。授業料を払ってもらって通っている私立の大学の授業はほとんどサボって落単まっしぐら。バイトも週3が限界。勉強もできないし、かといって得意なこともない。アニメと漫画と小説とゲームばかりに熱中して、他人と関わろうともしない。一日中寝るか食うか、そればっかりの生活。肌は荒れ、部屋も荒れている。おまけに不潔だ。外出する時以外は歯磨きもしないし顔も体も髪も洗わない。人間として、ただただクソ野郎だ。

「人の役に立とうとは思わないの」

 母はこんな私に嘆いた。
 ……そんなの、思うに決まっている。人の役に立てることは、すばらしいことだ。うれしいことだ。そんなの私じゃなくても、誰だってそうだろう。
 飲食バイト中、お客さんの様子を見つつチェイサーを提供したり、おしぼりを交換しに伺ってみたり、そういう何気ない気配りをすることが、私は好きだ。そういう小さなお役立ち行為には、ささやかな幸せがある。今喜んでくれたな、よかったなと、私も嬉しくなる。たぶんあたりまえのこと。でもクソ人間にとっては大きなこと。こういうことをするだけで、世界で一番人の役に立った気になってしまうのだ。私には、それだけでよかった。

 母は言う。資格をとって、公務員になって、社会の役に立ちなさい。
 
 多分、母の言っていることは正しい。母は私があんまりクソ人間だから、なんとかして立派な人間に仕立て直そうとしてくれているのだ。
 けれど、私にはわからない。社会の役に立つってことは、私にとって嬉しいことなのか。そもそも、母が言う「社会」ってなんだ。母は私に何を求めているんだ。社会なんて顔も体も心もないもののために働けというのか。喜んでもくれないものの役に立って、それで私には何が残る。何も残らないなら、そんなのはいやだ。
 もっとちっぽけなもののために生きたい。自分の力で、自分のなにかで、誰かをくすっと喜ばせられながら生きられたら、私はそれだけでいい。でも、それはとてつもなく難しい。

 私にとっての「役に立ちたい」という感情は、所詮自己満足の類なのだ。私がしたいときに、私がしたい人に、ぽろっとなにかを施してみる。そんなものなのだ。しかし母が言う「人の役に立つ」という言葉の意味は、そんなちっぽけなものじゃない。多分もっと奉仕的なものだ。自分がやりたくないことをしてでも、見返りがなくても、例の「社会」とやらの為に尽くさねばならないということだ。そして、母にとって、それは当たり前のことなのだ。やりたくない仕事をして、お金を稼いで、そうやって社会で生きていくことは常識なのだ。でも、そんな生き方をしている母親はちっとも楽しそうじゃない。いつも疲れ果てている。だからこそ、私は母のようにはなりたくはないと思った。もっと自分のやりたいことをしながら、ついでに誰かの役に立って生きていきたいと思うようになった。母と私とでは、「役に立つ」の言葉の重さが全く違った。

 私は、甘ったれだった。夢を見ていたつもりはなかった。けれど、やりたいことを好きなようにやって、お金をもらって、ついでに誰かを喜ばせられることが、自分にはできると自惚れていた。クソ野郎らしい思考回路だ。

 私は私立大学の文芸学科に進学した。文字を書くのが好きで、絵を描くのが好きで、小説や漫画を読むのが好きで、だからこの学科にした。好きなことをやって、力を伸ばして、いずれそういう仕事について、そのまま生きていけると信じていた。そんなものはまやかしだった。
 日々の授業ではひっきりなしに課題が出された。私が締切に間に合わせることで精一杯になっている中、周りは持ち前の発想力と作風でひとつひとつの課題を丁寧にこなしていった。しかも、それらが全部めちゃくちゃに面白いのだ。こいつら正気かよ、あり得ない。嘘だろ。
 やりたいことをやりたいようにやるだなんて、そんなの本当は誰もが望んでいる。けれど母のように、やりたくないことをこなして生きている人たちも大勢いる。この世界で、やりたいことだけやって生きていくのは難しい。そんな当たり前の現実に、私はようやく気がついた。この文芸学科に来るような人たちは、もちろんそれをわかっている。だからこそ本気なのだ。役に立つ立たないなんて問題じゃない。自分の作品を認めてもらう為に、たくさん努力を重ねているのだ。
 私はどうだ。生半可な覚悟。中途半端な欲望。そんなことで食っていけるわけない。無理だ。彼らみたいな個性も才能も、今の私にはない。

 やがて私は、創作意欲を完全に失った。自分にはなにも個性がない。それを思い知らされて、やりたいことを見失った。なぜ大学に通っているのかもわからなくなった。そしてそのまま、大学をサボるようになった。電車と高速バスとスクールバスを乗り継ぐ通学時間は片道2時間。大半寝て過ごせばすぐだが、その距離にさえもうんざりしはじめてしまった。

 だらだらと日々を過ごした。こんな私のために学費を払ってくれている両親は、一体どんな気持ちだろう。こんなことは許されないとわかっているのに、それでももうどうしたらいいのかわからなくなった。死んでしまいたくもなった。けれど、クソ人間なのでそんな勇気はもちろんない。結局、私は逃げ道を探して生きているだけなのだ。小さいことで人の役に立てればそれだけでいい、そんなのは言い訳だ。自分を犠牲にしてでも人の役に立つことなんて無理だから、そっちの道に逃げているだけ。逃げて逃げて、逃げた先がこれだ。もう私には何も残っちゃいなかった。むしろ、最初から何もなかったのだ。

 大好きだった創作に手がつかないのは、それだけで苦痛だった。Xのタイムラインで流れてくるイラストや漫画に絶望を繰り返す日々が続いた。こんなもの私には描けない。描きたいのに、描けない。

 ある日、私はXで、好きなイラストレーターさんのとある投稿に出会った。4年前の作品と現在の作品を並べたポストだった。
 それを見て、はっとした。私は、絵をちゃんと描いたことがない。練習していない。それで上手くなれるわけがなかった。思えばそのイラストレーターさんは、毎日人物をデッサンして構成を練習していた。色の塗り方なんかも、本をたくさん買って勉強していた。そういう努力を、私はまだしていない。それじゃあ実力なんてなくて当然だ。創作なんてものは、好きだけでやっていける世界じゃないんだ。私は、改めてその事実にはっとなった。

 クソ人間に落魄れた私だが、でも創作を諦められない。わがままだけど、今度は一から努力して、自分を過信しないで潔くボコボコにされながら、なんとか自分らしさを見つけていきたいと思っている。けれど、そう思えるようになるまであまりに時間をかけてしまった。この一年、私はまるで成長しなかった。むしろ退化していた。両親からの信頼もますます地に落ちた。それでも、これからは全力でやりたい。私は、クソ人間をやめようと思う。

次の1年で、できる限りの努力をする。

 クソ人間を脱却する。そのための目標を掲げようと思う。

①とにかく大学に行く
当たり前のことだが、行かなきゃ始まらない。どうあがいても、私は創作が好きだ。好きならやるしかない。この大学で身につけられる力はたくさんある。逃げてたってはじまらない。努力する覚悟を持て、クソ人間!
②一人暮らしをする
このたるみ切った生活習慣は、自分でなんとかしていかないといけない。そのためにも、まずは自分のことをしっかりやる習慣をつける。早寝早起き、日頃の掃除、整頓、家事。人間として成長するためにも、まず親から離れなければならない。それに、自分自身まだ高校生の延長のような心持ちでいる。いい加減に大学生として、自分のことを自分でやる努力をしろ。また、大学に行きたくなくなる要因のひとつには「距離の遠さ」もあった。ここで環境を変えて、心をしっかり入れ替えたい。
③フル単し、単位を絶対に落とさない
1年で落としに落とした単位を巻き返す為、取れうるすべての単位を取る。もう落単が起こることは許されない。友達がとっている科目をとにかく一緒に受けて、情報共有をする。1日に授業をつめこんで、とにかく出席する。課題は適当でいいから必ず出す。卒業と就職のために、何がなんでも単位をとる。
④毎日1時間、デッサンをする
描きたいものを描くためには画力がいる。そのための努力を怠ってはいけない。今までは好きなものを好きなように描いていた。そんなものは努力ではない。心の底から「描けた!」と思える作品を制作する為に、私は全力で頑張ろうと思う。
⑤親への感謝を忘れないこと
大学に通わせてくれる両親を、もう二度と裏切らない。成人式を迎えるまでには「この子はもう大丈夫だ」って思ってもらえるように、1日1日を大切に生きていきたい。誰のおかげでここにいられるのかを、絶対に忘れない。



私の将来は、これから一年でどれほど変われるかにかかっている。逃げるだけだった生き方を、自分の力で変えていきたい。その上で、改めて、自分の何かで誰かを幸せにできる方法を探していきたい。

これから、自分を頻繁に省みながら、少しずつ前へ歩んでいきたい。


以上、クソ人間の自己紹介でした。

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