ローカル線の貨物輸送はなぜ衰退したのか

幹線以外での鉄道貨物の衰退の原因は、第一義的には道路インフラの整備によるトラック輸送への移行によるものだろうが、当時の鉄道貨物には大きな問題があった。それは時間がかかりすぎるということである。

国鉄末期にコンテナ貨物列車を中心とした直行便方式に切り替えるまでは、拠点駅や操車場で貨車を組み替えて貨物列車を組成していた。操車場では何本も線路があり、方面別に貨車を振り分けていた。やっている事自体はハブ空港での荷物の積替えや物流会社の拠点での荷物の積替えと同じなのだが、広大な操車場の中で入換用機関車で貨車を1両づつ牽引して多数の貨車の入換を行っていたため、とてつもなく時間がかかった。鉄道貨物は全国ネットワークだったから、各地の拠点ごとに時間のかかる入換をやっていたわけで、出発駅から到着駅まで何日かかるかわからない状態だった。

貨物の扱いのある駅に停車するごとに荷扱のための時間が必要で、旅客列車よりも停車時間がかかった。多数の駅で貨物を扱えば、その分貨物列車の停車時間が増大し、旅客列車に対して著しく所要時間がかかった。

国鉄の路線網が広大すぎて駅の数が多すぎたため、貨車1両単位で全国どこの駅にも届けるというサービス自体に無理があったのではないか。他に選択肢のなかった時代ならそうせざるを得なかったが、1970年代後半になって道路網の整備が進んでくると、トラックが実用的な選択肢になってきた。

トラックなら1台で直行できるので1日かせいぜい2日もあれば届くし、国鉄末期の劣悪なサービス品質や高運賃を回避できたので、トラックに流れて当然といえる状況だった。当時は今よりも燃料代が安かったり、大型免許保有者が多かったり、労働条件や環境への配慮が今ほど求められていなかったというのもあるだろう。

なお、貨物輸送とは別に旅客列車の荷物車を用いた小荷物輸送というのもあったが、これも鉄道貨物同様に劣悪だったので、ヤマト運輸が宅急便を始めた途端に駆逐され国鉄の荷物輸送が廃止された。同時期には国鉄による郵便輸送も廃止されている。

東京大阪間といった拠点間でまとまった量の貨物を輸送するなら鉄道貨物の方が効率的なので今でも直行便方式のコンテナ貨物列車が多数設定されているが、これはまとまった量の貨物需要のある区間でしか成立しない。短距離輸送であればトラックで最寄りの貨物駅までコンテナを運んだ方が早い。コンテナ貨物列車なら貨物駅でコンテナを積み下ろしするだけでよく、これは貨車ごと入れ換えるよりもはるかに早い。そのようにして一部の主要駅を除き全国各地の貨物駅が貨物列車が発着せずトラックで輸送するオフレールステーションになった。

現在貨物列車が残っているのは、主要駅間の直行便方式によるコンテナ貨物列車に加え、内陸のセメント工場から港までセメントを運ぶといったように、まとまった量の重量貨物を一定区間で運ぶような路線である。たとえば秩父鉄道や西濃鉄道や岩手開発鉄道である。西濃鉄道や岩手開発鉄道の沿線では旅客需要がないので貨物専用だが、秩父鉄道沿線ではそこそこ旅客需要があるので、貨物輸送の収益で旅客輸送を維持している。かつては石炭輸送は鉄道貨物の独擅場で、だからこそ筑豊炭田から若松港まで鉄道網が張り巡らされていたが、炭鉱が閉山して線路の大半はなくなってしまった。

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