世界樹の魔法使い 3章:三年前と元研究員②
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暗い石造りの部屋の中を見れば、そこには巨大な何かが住んでいることがよく分かる。衣類、勉強道具、食べカス、ホコリの塊、色々なものが散かっている室内に、巨大なベッドと、女性が二人は入りそうなパンツと半ズボンがドンとある。
この部屋の主は布団に入ったまま動かない。
夜更かしをしても何も良いことがない尖塔は、就寝時間になると完全に静かになる。
そんな静寂の中で巨大な特注ベッドをきしませて、一人の男子生徒が身を起こした。彼はいつも通り上半身は裸のまま、ゆっくりとベッドから降りた。
体に描かれた無数の文様と、彫り物のされた特別な牙、隆々とした筋肉が象徴的な巨体は、紛れもなくバルバロだった。
急に寒気に襲われたバルバロは、少し口を開いてクシャミのスタンバイに入った。
「ば……、ば……、ば……」
だが、今は我慢しなくてはならない。大きい声を上げると大勢の生徒が目を覚ましてしまう。自分のクシャミの大きさを理解しているバルバロは、先に息を吐き出すと、「ぶぉふ!」と、残りカスのような小さいくしゃみをした。
そう、今夜は音を立ててはならない。
何故なら、バルバロは今から、チュイと八重子と一緒に、ジョイナーの部屋に浸入する算段をつけているからだ。
昼にジョイナーを捕まえたところで、はぐらかされて逃げられてしまうのは目に見えている。それならば、夜間に彼の部屋に侵入し、話を聞き出してしまえば良い。好都合にもジョイナーの部屋は特別教育部の高い所に位置している。たどり付くまでは苦労するが、たどりついてしまえば、校長室とは違って窓はないはずである。実戦にでもならない限りジョイナーに逃げられることはないはずだった。
バルバロがそっと抜けだそうと動き出すと、隣の部屋とを隔てる石壁が、微かな音を立てて外れる音がした。
「ば?」
バルバロは壁にポッカリと空いた穴に近づいた。それは人の手が一本だけ通るような穴で、中を覗き込むと光るツォウの目がバルバロを見ていた。
バルバロは驚いて穴から顔を離すと、もう一度、穴を覗き込む。
この穴は昔、バルバロとツォウの部屋が分かれた時に作った穴だった。
途中までバルバロとツォウは一緒の部屋に住んでいたのだが、歳を重ねるにつれてバルバロの体が大きくなりすぎてしまい、部屋を分けざるを得なくなってしまったのだ。結果、特別扱いが許されていないのに一人で部屋を使っていたフレイソルが、ツォウと相部屋になることになり、寂しがりのバルバロが一人部屋になったのだ。
その頃のバルバロにとって、一人の夜は恐ろしかった。来る日も来る日も寝付くことが出来ず、大声で泣いて当直の職員を困らせることもあったぐらいだ。
そんなバルバロを心配してツォウが作ったのが、この秘密の穴だ。当時はツォウも獣人なのでフレイソルに辛くあたられていた。しかもフレイソルは一人部屋を諦めさせられて不機嫌きわまりない。だからツォウにとっても、この穴は救いだったのだ。
そんな懐かしい穴が久しぶりに開かれ、二人の目が合っている。いつもバルバロが眠るまで、ささやきながら喋っていた時と同じように。
暗闇の向こうでツォウが口を開くと、それは昔のように静かな語らいとなった。
「バルバロ……ジョイナー先生のところにいくの?」
バルバロは、小さく頷いた。
「――いく。つぉう、いいの? ふれいそる、おれとしゃべると、おこる」
「うん、今は大丈夫なんだ。旦那は傷心して、おやすみでいらっしゃるんでね」
「やけど? ふれいそる、じぶんのまほうでもえた?」
バルバロの返してきた言葉に、ツォウが小さく笑う。
「体が燃える方じゃないよ。心が傷ついちゃったんだ」
「ばー……。つぉう、おれ、いましゃべれない。はやく、いかないと」
「まって、旦那が心を痛められたのはジョイナー先生に理由がある」
穴の先はほとんどツォウの顔を見ることはできない。
だが、声色が真剣になったのは、バルバロにも十分分かった。
「ばっ……?」
「実は、僕たち今日……、リズィ秘書官から、先生のことを聞いたんだ」
バルバロはツォウの言葉の重大さを理解すると、穴に顔を近づけていた。
「それでね、リズィ秘書官の話を聞いて、僕たちはジョイナー先生を辞めさせることを諦めたんだ……」
バルバロは壁に手を置いて穴に顔を近づけると、「なんで……! どうして?」と、動揺した声をだしていた。あのフレイソルが、ずっと嫌悪してきたジョイナーの解任を、そう簡単に諦めるようには思えなかったからだ。
「それは、もちろんリズィ秘書官から聞いた内容のせいだよ。本当は、今日聞いた内容を教えてしまっても良い。だけど、リズィ秘書官が言ってたんだ」
「ばー……」
「チュイがもしもジョイナー先生について行くつもりで、八重子とバルバロがチュイについていくつもりなら、三人は直接ジョイナー先生と校長先生に話を聞いた方が良いって……。だからね、ぼくは今、バルバロに話せないんだ」
それを聞くとすぐにバルバロは壁から手を離して、鼻息を荒くした。
「じゃあやっぱり、いって、たしかめるしかない」
だが、ツォウは「まって!」と声をかけた。
「別に行かなくてもいいんだよ? ジョイナー先生が辞めさせられるなんてことはないんだから。校長先生がふっかけていたのは無理難題なのは知ってるだろう? 僕や旦那にはどうすることもできない内容だったんだ。だから既にバルバロたちの勝ちは決まっているんだよ」
「でも、ちゅいと、やえこは、いくから、おれもいっしょにいく」
バルバロは再び行こうとして、ツォウに背中を向けた。
「分かった……。じゃあ、最後にこれだけ伝えておくよ」
「なに……?」
「今日、ジョイナー先生は自分の部屋にいない。尖塔の北にある丘に居るんだ」
もしかしたら、ツォウは嘘をついているのではないだろうか。
バルバロの中にそんな疑念は一切起きなかった。
「……わかった、ありがとう。おれ、ちゃんとつたえる」
「そこでは今日、僕たちが知ったことに関係して儀式をしているって……、校長先生と二人で、一人の女の人に会ってるって」
「わかった、おれつたえる。ちゅいとやえこに、つたえる」
バルバロはそう言うと開かれた穴に背を向けた。
その背を見るツォウの瞳には、フレイソルの仲間としての敵意はない。むしろ彼への憂いと励ましが混じる、何とも言いがたい深遠なものだった。
そしてツォウはゆっくりと穴を塞ぎ、その音がバルバロの耳に届くと、部屋の中は再び静寂に包まれた。
まだ十三歳だったころ、チュイと一緒に外に出たことをバルバロは思い出す。あの時は窓から抜け出して屋根に登って抜け出していった。今回もやり方は同じだが、今の大きな体ではできない。
バルバロは手に魔力を込めながら、力一杯、小さな声を出した。
「ばーぁぁぁぁあ!」
体に強化魔法がかかり、力がみなぎってくる。
バルバロは背伸びをすると、一枚岩の巨大な天板と壁の接点である石のブロックを、ゆっくりと抜いていった。
隙間無く埋められた石は引き抜くのが難しい。特に一つ目の石は慎重に抜いていかないと、周りの石まで一緒に抜けてしまう。そうなれば、大きい音を立てて、大目玉を食らうことになる。
そんな八重子からの受け売りを一つ一つ思い出しながら、バルバロは片手で石を掴んで、空いた手で、周りの石がひっついてこないように押さえた。
一つ目が抜けると二つ目、二つ目が抜けると三つ目と、壁の中央に縦に割れた穴を作るように石を抜いていく。八重子に言われた事を覚えてはいても、それをやりきれる自信はなかった。窓の位置まで石を抜いたら、窓を支えるアーチ状の石を取り、窓の幅に合わせて石を抜いて、窓そのものを外してしまう。ここまで来れば、あとの行程は崩れないように注意さえすれば、難しくはない。
バルバロはほっと一息ついて大きく息をつくと、自分の体が通るように、次々と石を抜いていった。
そして、床に抜いた石を敷き詰めていくと、自分の体が通るだけの穴が出来た。
「ん……」
バルバロは天井を見上げて、自分が登っても崩れることはなさそうだと確認すると、意を決して背中を穴の外に向け、天板の角を掴んで体を外に放り出した。
ぶらんと、巨体が寮の屋根にぶら下がる。体をもっていくような強い風はなく、あとは腕力だけで上に登ってしまうだけだった。
「ばーあっ!」
腕に力を入れて体をゆっくりと上に上げ、足を屋根に乗せて体全体を持ち上げる。
ゴロンと屋根の上に体を転がすと、目の前に広がるのはそこは何もない岩場だ。チュイと共に天刺す尖塔から逃げようとした時から変わることのない、ゴツゴツとした岩場だった。
***
「嘘でしょ!?」
チュイの声がグラウンドを突き抜け、何重もの音の輪を作って反響する。
それは、チュイの口を塞ぐには十分な理由だった。、
「ちょっとバカ!」
ピンと耳と尻尾を立てたチュイのマネでもするように、八重子も驚いて長い耳と尻尾もピンと立たせると、チュイの口を掴むようにして塞いだ。
口をふさがれて慌てたチュイが「ごめんー」と言うと、八重子の手の隙間から、「ふふんー」と声が漏れる。何を言っているのかは聞き取れないが、チュイの丸い目が許しを請うているのを八重子は見て取ると、静かに手を離してやった。
そして手を離されたチュイは、柔らかい自分の頬をさすりながら口を尖らせた。
「だってだって、バルバロが急に変なこと言うんだもん……」
「へん、ちがう! おれ、つぉうから、きいた、ほんと。せんせい、きょうは、へやに、いない。きたのおかに、いる」
バルバロが慌てて大きな両手を目の前で振って無罪をアピールすると、八重子は鼻でため息をついて、辺りを見回した。
「それより、大丈夫? ワンさんや監視員の人は近づいてないでしょうね?」
「そうだね……見つかったら意味ないもんね」
チュイも辺り目を配り、そしてじっとして耳を澄ませるが、グラウンドの隅から見える平ら更地には何の気配もない。頭上も後ろも物音一つせず、感じられるのは闇から吹いてくる静かで優しい風の音だけだった。
「前も見つからなかったし大丈夫だよ! あの時、先生たちにルートはバレなかったし! それに、人の気配も臭いもないもんね」
チュイが小さい拳を握って荒い息を鼻から出すと、バルバロが何度か頷き、八重子は微かに疑心を残しながらも体の緊張を解いていった。
この場所も、チュイとバルバロと八重子が抜け出す時に使ったルートそのままだ。本来なら、表の道を使って行くのが尖塔から抜け出す時のセオリーなのだが、当時のチュイたちは、その通りにはしなかった。
彼女たちが選んだのは整備された道ではなく、凹凸が激しい石壁の上だった。
当時の三人が、そんな道を選んだのは、リスクを侵してでも天刺す尖塔を抜けだそうという気概があったからだった。
そして今は、体もできあがってきて、更に楽に岩場を越えられるようになっている。だからこうして、昔と同じようにグラウンドの隅に集まったのだが、バルバロが持ってきた情報によって選択肢ができてしまった。
ここは、中央にある特別教育部の東側。
グラウンドから伸びる道に入っていけば、特別教育部にたどり付くし、再び岩壁を乗り越えて進めば、バルバロが言っていた北の丘だって遠くはない。
「でも、バルバロが聞いてきた情報ってツォウがフレイソルの圧力でやった奸計ってことは考えられないの?」
八重子の言葉が分からずバルバロは「かんけいって……」と、困った顔をした。
「だましてるんじゃないかしらって……。バルバロには悪いけど、ツォウはフレイソルに付いてるんだから、私達をだますように言われている可能性だって捨てきれないわ。あいつだって、私たちに先をこされたくないはずだから、これで私たちが監視員に見つかれば、良く見積もっても謹慎。彼にとっては良い結果になるでしょ?」
「だいじょうぶ、それない。おれわかる」
「何でそう言えるの……?」
八重子が見上げてくると、チュイも「そうだよ」と言う。
そう言われると、バルバロは決まりが悪そうに丸い頭を手の平でなでた。
「ばーうー……、つぉう、おれにはうそ、つかない。ずっと、おれと、つぉうなかよくしてた」
「それじゃ理由にならないわよ」
「ばー、それに、ふれいそる、せんせいの、はなしきいて、やめさせるの、やめるって。あと、せんせい、そこで、おんなのひとと、あうって」
チュイの目が丸くなって口が大きく開かれていくと、八重子が慌てて口を塞いだ。
「――!?」
「んーーーーーーーー!!?」
チュイの大声の振動が、八重子の手の平を伝わって腕を震わせる。
八重子はゾワゾワと背中を振るわせると、チュイの口を掴んだ手を振った。
「ねえ、バルバロ、それほんと!?」
「ちょっとチュイあんた、もう、よだれが……! もう……」
八重子が怒りをぐっと堪えながら濡れた手の平を差し出しても、チュイは全く気が付かず、バルバロにぐいぐいと迫って、巨大な彼を後ずさらせた。
チュイの中には三つ気持ちが膨らんでいる。
一、もともとあったジョイナー自身から話が聞けるという期待。
二、フレイソルがジョイナーの事を先に知ったという事に対する焦燥。
三、ジョイナーが会うという女への嫉妬。
「ねえ、ほんと!? ほんと!?」
「ほんと、ふれいそる、やめた。そのりゆうをしるの、きたのおか、いかないとだめ」
「女の人もくるの!?」
「ば? くるって……」
それを聞いたチュイは目を光らせて唇をぎゅっとしばり、強く鼻から息を漏らした。
「決めた! 今から行くのは北の丘にしよ! 先生がもう辞めさせられる心配がないなら、あとは、色々聞くだけだもんね! っていうか女の人が気になるし!」
いそいそと北の丘に向かう岩壁を登ろうとするチュイに、肩を貸すバルバロ。
一人取り残された八重子は涙目で、チュイのよだれに濡れた手の平をグラウンドの土にこすりつけていた。
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