死刑囚表現展2020に行ったときの備忘録

本題の前の雑談タイム

 ここ最近、花を贈ったり貰ったりすることが複数回あった。夏の終わり頃、落ち込んでいた私に対して友人が「なのか、元気出して!」とお花をくれた。それが嬉しかったので、私も贈り物として花を選択することが増えたのだ。花は見ていて美しく、癒される。部屋の空間に自分以外のケアすべき生き物があるとき、ついでに自分自身もケアするようになる気がする。

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 駅前でよく見かける少しお高めな花屋さんでお花を買うと、大抵「お花長持ち剤」という液体を貰えるのは、読んでいる皆さんはご存知だろうか。名前の通り、この液体を花瓶に注ぐと、入れないよりも長くお花を楽しむことができる。

 何も思わずに花を愛でることができるのは、良いことだと思う。私は、その液体を花瓶の中に注ぎながら「これは花に対する延命治療だなぁ」と思った。そして、どうしてか,思う必要もない,複雑な気持ちになった。

 長持ち剤を入れた花はある日突然、花びらの色に枯れそうな表情を見せることなく、椿のように花托ごとコトリと落ちていた。そして私はそのとき、その落ちた花を、昔の人が椿をその意味で忌むことがあったように、まるで………

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小説を読んでいたら、このフレーズに目が止まった。

「実は僕も切花が苦手だ」
…(省略)
「…切花を生き物の死体だと捉え、それ以上の何物にも見れないからだ」

『凍りのくじら』辻村深月(講談社)

 なんとなく、私が思っていたこととリンクして、再び複雑な気持ちになった。そしてすぐに、こんな風にモヤモヤした感情を抱く自分を馬鹿らしいと思った。毎日何を食し、何からできた布を身に纏い、何からできた箱で雨風に当たらず温かい部屋で幸せに暮らしているかも忘れて、切花に感情移入するなんて。

死刑囚表現展2020

 2020年10月23日〜25日、都内で第16回死刑囚表現展が開催されていた。これまで聞いたこともなかったが、10月10日は世界死刑廃止デーらしい。そして毎年10月に「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」という団体が、死刑囚の唯一の社会との接点とも言える、死刑囚表現展を行っているらしい。今年は相模原事件・植松聖死刑囚が初出展したということでメディアに報じられ、その存在が広く知られるようになった。私もSNSで以下のネットニュースを見て、今回初めて足を運ぶに至った人の一人だ。

 死刑制度そのものについて、私個人的に思うことはたくさんある。賛成か反対かだけで自分の意見を表明しないといけないのであれば、私は死刑制度廃止に賛成だ。ただ、今回はその理由を述べる作文を書きたいわけではない。他の美術展へ行くノリと変わりなく、ただ少しの怖いもの見たさな気持ちを抱えて訪れ、感じたことの備忘録を残しておきたいと思う。

多分、そんなに変わらない

 死刑囚表現展に行く前に、私は特に事前の調査などはしなかった。行く前に事件と名前を記憶していたのは、植松死刑囚だけだった。会場に到着して、作品の一覧と作者の載った紙を貰ったが、そこに誰が何の罪で死刑判決を下されたのかなどは一切書かれておらず、私もその場で調べることはなかった。

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 小中学校の教室の半分あるかないかの狭い会議室に、特にデザインされることなくそれぞれ作品が並べられていた。メディアの影響もあってか、かなり人がいたと思う。世代もバラバラで、子連れのお母さんもいたし、年老いた人や学生服を着た人もいた。スマホでググりながら作品を見ている人もいたし、メモをとりながら見ている人もいた。関西地方のテレビメディアもいた。

 美術に関する特別な知見があるわけでもない私が、作品らを見て率直に思ったことと言えば「違う世界の人とは思わない」ということだった。先日、嵐の大野くんのFREESTYLE2020という個展を見に行ったときは、圧倒的な見えている世界の違いを感じた。自分には何も真似できないと思ったし、どうしてその色を選ぶのか、どうしてその形になるのか、何もわからなかった。特別な技法があるのかもしれないし、芸術家なら当たり前なのかもしれないが、私にはそれが違う世界の人だと思わされた。一丁前に上野でゴッホ展なんかも行ったことがあるが、同じことを思った。

 一方で死刑囚美術展の作品たちは、小中学時代の絵が上手い子が、悪ふざけで書いたらこんな絵になりそうだというものもあったし、立派なようで黄金比や白銀比がないと判る故に歪さを感じる絵画があった。人物のスケッチも、書道も、私の友人の方が上手いような気がした。

そして、私には「死刑という形の死が確定している人々の特別な何か」や、「自分の罪を悔い改め向き合っているかどうか」などを見極める目など持っていなかった。

 メディアに広く報道されたからこそ、今年はメディアからもそこから情報を得た人たちからも「死刑囚の作品を展示する表現展を、被害者感情から見ていかがなものか」という批判が殺到したらしい。ただ、この記事にあるように、それはこの企画がどういう意図で行われているかを無視した意見になりかねない。

周りの無視と自分の無知との積み重ねの行動の最終形が、どんな結果を及ぼすのか、この展示の出展者がまさに体験していることなんだと思う。

 幸いなことに、私は被害者という立場でも加害者家族という立場でもなく、テレビの中の出来事として捉える人という立場でこの展示に訪れることができた。今年見た死刑囚の作品が、来年、私のような人間でも解るほどに、何か変化があるのか興味深い。もし来年も機会があれば訪れたいと思う。


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