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ひとつ、ふたつ


テレビから流れるパリオリンピック開会式。


音量は50ではないか。


毎回、訪問時間ピタリにくると、たいていその人は、自宅手前の路地まで出て、時計と睨めっこして私を待っている。


こんな暑い日にそれをされたらかなわないと思い、5分前に来た私が間違いといえばそれまで。


ピンポンを押すと、居間から顔を出したその人は、手だけカモンカモンとしている。


カモンカモンは手のひらを上に向けて、前に伸ばした状態で、小指から順番に自分の方に滑らかにたたむ流動性のある仕草のことだ。

大きい声でお邪魔しますを言って入るが、何せオリンピックの開会式が音量50のため、私の声は届かない。


その人は脱衣場に身を隠した。どうやらランニングの下着と股引き一丁で過ごしており、恥を忍んで、身を潜めている。


あれまあ、いっぷくさん、ちょっと待って!
あんたくる前に終わらせようと思ったけど、豆もぎがもうちょいだから。


枝豆の収穫に忙しい連れ合いの奥さんが、でかい声を張り上げる。


おかあさーん、おとうさんが、着替えを求めてます。という私の声に


あのさあ、あんたが人様から何か貰えないってことは重々承知でね、枝豆、持っててくれない?と答える。


枝豆、ああ、嬉しいけど、おかあさん、おとうさんが呼んでるよ。と再度声をかける。


本当に持っててくれる?ああ、嬉しい!なりすぎてさ、食べきれないし、困ってたんだよ。もうちょい取るから待ってて!


脱衣場からカモンカモンして、おかあさんに合図を送るも無視され続けるおとうさん。


居間から、大声を張り上げてもおかあさんに都合の良いところしか聞いてもらえない私。


パリオリンピック開会式では、セーヌ川をメタルホースが駆け抜けていて


私の声もおかあさんの耳を駆け抜ける。


おとうさんのカッターシャツは、私の目の前にぶら下がっているが、下着姿を見せたくない私から受け取るのは、本末転倒である。


あのさ、ひとつ豆とふたつ豆ばっかりなんだけど。


おかあさんがようやっと、私のところにビニール袋に入った枝豆を持ってやってきた。


人にやるのに、3つ豆が入ってるやつを選り分けて、持っていったから、ごめんね。うち用で。と言う。


自宅用の豆をあげようと思うほどに気安く思ってくれているのはありがたいが、


客人来たる!と脱衣場から、顔だけ出して待っているおとうさんをどうか気にかけてほしい。

おかあさん、おとうさん出てこない。とわたしが言うと


えっ、何?あんた、まだ恥ずかしいって気持ちあったんだね!えっ、いっぷくさん来たから、着替える?まあまあ、えらいこっちゃ。


そこから、流れるように背中の汗を拭いてシャツを着せて、ズボンを履かせて、おとうさんはサスペンダーを肩にかけると、登場した。


舞台袖が丸見えだったが、


いやいや待たせました。と涼しい顔のおとうさんに、いやいやこちらこそ予定より早く到着してしまいすみません。と言う。


ようやくTVが消されて、静かになる。


わたしの仕事はここからはじまるが


オープニングだけで満腹。


おとうさんの羞恥心や紳士的な対応。


おかあさんの親しみや気遣い。


訪問のたびに少しずつ変わりゆく関係性。


ひとつ、ふたつ。


豆の数が少ない房は、割と美味しいよね。


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