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東京ー大阪、日常を引き伸ばす電車旅行

学校のゼミが終わって昼飯を食べて、そのままの足でJRに乗り込んだ。戸塚で乗り換え、熱海で乗り換え、凄い勢いで移動してるつもりなのに、やはり鈍行なので、なかなか知っている地名から逃れられない。

特に静岡を横断する過程が長く、同じ電車に3時間乗らなければならなかった。座っているのも苦痛になり、号車を移動したりしていた。清水、掛川、浜松、尻が痺れる。

去年の春ぐらいに、1日で岡山まで乗ったことがあったので、正直余裕だろうと思って舐めていたが、学校が終わってから行くとなるとなんとなく、どういう気分で行けばいいのかわからず、疲れるのが早い。

浜名湖の西あたりで日が暮れた。部活帰りの高校生たちが沢山乗っていて、テストの話をしている。盧溝橋事件、微分積分、とか言う単語が聞こえてくる。ナントカ先生の、テストを返すときのあの冷たい目!怖いんだよなぁ、とか、高校生はくだらない話しかしなくて清々しい。

というか静岡県内でもう日が暮れてしまうことは少し残念に思う。これ以降窓の外が真っ暗だなんて、しかも静岡は神奈川の隣の県ではありませんか。窓の外が暗いと、窓に自分の顔が反射しているのしか見えないからつまらない。

それでも、もうすでに知らない場所にいる。知らない駅名ばかりが続いて、時々豊橋とか名古屋とか関ヶ原とか知っている地名が来る。その時だけは、もうこんな遠くにいるのかと思う。だが頭の中には、まだ学校の先生の話す声や友達の笑い声がなんとなくうっすら残っている。おかしな気分になる。

確かにさっきまで学校にいて普段みたいに過ごしていたのだ。

京都に差し掛かるともうあっという間だった。と言ってももう23時をまわりそうな時間だった。酔っ払った大学生たちが乗り込んできて、祭りのようになっていた。

関西圏に入ったという安心感はある。普通に1本でも間違えたら終了というギリギリの行程だったので、安心した。

どんどん都会になってゆく、建物が密集するようになる。

川を何本も越える。桂川というのはどこかで聞いたことがある。

高槻は関ジャニ∞の村上の地元だ。

腹が減って死にそう。

ガタンゴトン

「次は吹田吹田、お出口は左側です」

あーやっと着いたよ。

ホームを歩く足がままならない。
平衡感覚がおかしくなってちゃんと歩けなかった。

どう考えても日常ではないのに、日常の延長線みたいなノリで東京を出発したので、日常を引き伸ばしまくった非日常みたいな意味のわからない気持ちになっている。 

エスカレーターは何も考えずに関東式で乗っていた。

本来はここから30分は歩かなければいけなかった。

タクシー!俺を助けてくれ!とタクシーにすがる。もうここでケチる気力はない。

朝は10時過ぎまで寝ていた。起きてたばこを吸うために散歩をした。大阪は明るい街だった。

道を譲った自転車のおばちゃんは、「ごめんなぁ」と言いながら去ってゆく。

ラーメン屋のお兄さんに、無料のライスは付けなくて大丈夫と言うと、「ホンマに大丈夫か!?」と食前と食後にそれぞれ聞いてきた。

東京ー横浜で過ごしていると、普段こういうことを他人に言われないものだ。

関西から東京にやってきた友達はよく、東京の人は冷たいと言うが、本当に冷たいわけでは多分なくて、ただ他人にあまり干渉しないことを美徳としているとかある。確かにそれを冷たいと呼ぶのは正しい。関西にはそれがあまりないのだと思う。もちろん旅行者の意見だけど。

関西に来るたびに、西に移動するだけでここまで文化圏が違うものかと思う。関西弁は聞き慣れない。調子が全く違っているから、ほとんど外国語のような雰囲気すら感じてしまう。だから関西は半分外国な気もする。

24時間も大阪に滞在していなかったが、吹田の関西大学の学生街をうろうろして過ごしていた。のんびりした雰囲気だがとても暑い。西だから暑くなるのか。

学生たちは、東京の学生たちに比べてオシャレに気を遣っているなあとか思いながら、学生のための店が並ぶ街を練り歩いた。

レッドブル配りのお姉さん、「授業の前にエナ
ジーチャージしませんか〜」と言いながらパジャマみたいな服を着ている私にもくれた。私はそれを飲みほして、泊まらせてもらっている友達のアパートに戻って昼寝をした。

家の近い学生はみんな自転車で通学しまくっているらしい。授業が始まる10分前ぐらいになると、坂道を列になって駆け抜けてゆく。その様子をベランダから眺めていた。丘の上なので、大阪市街地のビルまで見渡せた。

なるほどな、とよく晴れた景色を眺めながら、自分の学校の雰囲気を思い出してみる。そして、夜行バスの時間を調べ始めた。

そう、明日は2限から学校に行かなければいけないのだ。何という素晴らしきことか。

追記

この旅行において、先生からの指示で何か作りなさいと言われたので、とりあえず作ってみたのがある。出来上がって先生に見せたら、これが一昔前でフィルムとかテープで作られていたのならば作品として成り立ってはいただろうけど、今現在では無理だね、と言われた。フィルムとかテープの映像はそれだけで付加価値があるらしい。どうしてデジタル映像にはそういった価値が無いのか、物質としての〜とか手軽さが〜とかいろいろ簡単に言われてるけど、本当はそれだけでは無いだろうと思う。でもなんだかはわからない。

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