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今日のこと

バイト帰りの電車の中で泣いているサラリーマンがいた。そこそこ混んだ車内の、ドアのところに座り込んで声を上げて泣いていた。時々、お母さんと呼んでいた。私は胸が痛くなったが、特に何も出来なかった。ただ少なくとも同情して目を逸らすことで精一杯だった。お母さんと呼んでいるのが生々しくて、鼓動が速くなるのを感じた。周りの人も同じように、目を逸らし、ある人は号車を変え、ある人はなんだアレはと言い、ある人は寝たふりをした。私もそんな群衆の1人だった。勇気がない。いやそれだけじゃないだろう。面倒なことに巻き込まれたくないんだろう。こんなにわかりやすく辛がっている人がいるのに、何も出来ない。怖いとすら思ってしまう。彼に何があったのかはスーツを着ていることから、仕事が関係しているんだろうとは思う。そんな仕事がある社会があるということ、他人だったら無視が一番という社会に暮らしていて、またそれに加担しているということ、全てのことに恐ろしくなって、怖くなった。誰かのせいにしたくなった。でもそれは紛れもなく、自分が無視することが不可能な問題たちだった。こんな酷い社会なのに、私は呑気に映画?の勉強をしている。趣味に没頭している定年後のおじいさんみたいな生活をしている。若くて元気なのに。多分私は今すぐにでも働いて、身をもってこの社会の抱えている問題を体感したほうがいい。もうこれ以上浮世離れしたくない。大学で学べることは将来の仕事の役には立たない。仕事を決めるのには役立つかも知れない。大学に行けば学びがあって感動がある。でもそれはとても個人的なことでしかない。私がただ嬉しいというだけだ。浮世離れも甚だしい。正直言って私は大学に通うような家の子供じゃない。ただワガママだから行っているだけだ。もう本当だったら働き始める年齢になっている。普通に考えたらわかる。芸術なんかの過去の出来事を研究するのは金持ちがやってくれればいい。そうでない人間は社会で働き、考え、生活するために生きる必要がある。それは過去のためじゃなくて未来のためだ。今、死ぬまで考え続けなければいけない問題がある。テキトーに結論をだして、こうこうこうでした、とか言って片付けられない問題が沢山ある。そんなこと勉強なんかでわかるわけがない。

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