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顔 続き

今回は、こちらの記事の続きとなっとります。

「なぜ、このカップルが結婚したらモラハラ夫婦になると予想されるのか?」

私が思った歌詞のポイントの一つは「うつむくだけの 何も言えない 私だから」なのです。

この歌詞の「私」は、自分のことを相手に何も言えていないのですね。で、その「理由」は、いくつか想像できます。意外なところで時代背景も一つ大きくあるのです。

1984年の日本には「それは気持ちの悪い、距離感がおかしい言動ですよ」を言い表す言葉がほとんどなかったですよ。

ストーカーやハラスメントはもちろん、「キモい」という言葉も一般的ではなかったのです。

飯間先生の記事の引用です。


「泉麻人(あさと)さんは87年の著書の中で「キモい」を使っていますが、今とは意味が違います。
〈〔ゴルフ場で接待相手に〕ミエミエのヨイショプレイが通じない最近、そのためにも、最初のハンディの設定はキモい〉(『丸の内アフター5』)
 この「キモい」は「重要だ、キモだ」という意味でした。「気持ち悪い」の意味の「キモい」は、80年代はまだ一般的ではなかったようです。
 私は95年、雑誌『流行観測アクロス』で〈超キモイ〉の例を拾いました。その後、90年代後半には、学生が「キモい」についてのレポートを書くようになりました。
「キモい」も、20年近くかかって認知されたわけです。ただ、このことばを友だちなどの他人に対して使うのは、ぜひともやめるべきです。」


この「顔」という曲が発表された84年には「キモいという言葉がなく、その概念もなかった」と考えられます。

歌詞の2番にある「会いたいわけじゃないのに なぜか毎日会うのは」今なら「ストーカーじゃね?キモくね?」と言えるのですが、当時は「その言葉がなかった」のです。それで「きっとそういう運命なの 思い込んではみるけれど」となるのです。自分の感じている「違和感」より、その時代の感覚「愛されるのが女の幸せでしょ」を採用すると、そういうことになってしまうわけですね。

この歌詞では「顔が嫌い」と言っているのであって「顔(の造形)がキモい」とは言っていない、のですが。今となって「キモい」の言葉や概念に「傷ついた経験」がある人には、自動的に「どんなに努力しても、結局男の顔がブサイクだと女は愛せないと叫ぶ歌」と変換される可能性が高いです。

しかしながら「嫌いという感覚」は、美醜だけに限らないのです。ある種の「危険性の察知」や「恐怖の予感」に対しても、人は「嫌いと表現する」場合があります。高いところが怖い人も「高い場所は大っ嫌い」と表現する、のような感じですね。あの時代「人間の関係的な距離感が近付き過ぎで怖い」を表現する言葉は、とても少なかったのです。今の「キモい」と呼ばれる言動の中にはこの「距離感のおかしさへの恐怖感」を含むものも、多くあると思いますが「ストーカーみたいで怖い」も「毎日会うとかキモい」も無かった時代。周囲には「好きなんでしょ」「条件はいい」なんなら「ハンサムで素敵な人じゃない」「情熱的に愛されてるね」ぐらい言われる時代。今でもストーカー被害を訴える人にそういった「二次加害」と呼ばれる言葉をかける人がいますね。

「個人が感じる、違和感、恐怖、不快感」vs「社会的価値感、評価」の構図は、今もあまり変わらないことではありますが。「人間関係上の距離感」については、80年代より21世紀は「語彙と概念が豊富」になっているとは言えるのではないでしょうか。

ここを踏まえて。歌詞を読み直すと。この歌詞に登場する男性は「社会的評価の言動しかしていない」ことが読み取れます。彼女の反応を「気にしている描写がない」のです。あの頃流行した「女にモテるマニュアル丸写し」言動のように読み取れます。いわゆる「女って、こうすれば喜ぶんでしょ?」「女を落とすテク」的な「一人の人間を好きになるではなく、女の所有への情熱」の部分とでも言いましょうか。彼女が「嫌いな顔」とは「好感ではなく、所有欲求をたぎらせている表情」だとしたら?

この後条件や周囲にある意味流されて、うっかり結婚でもしたなら。お見合いなり誰かの紹介なり、断れない立場的なものが当時は強かったですからね。結婚で夫と妻「立場が固定」されますね。「釣った魚に餌はやらない」と言われるように「モノにするまでの接待態度」は消えるでしょうね。そもそも一人の人間として見てなかったわけですから、妻として立場が固定されたなら「妻としてこうするものでしょ」が始まるのは予想されます。結婚による職業の変更、妊娠出産による経済格差などがあれば、ましてまして、ですな。そして彼は「彼女の反応を気にすることはない」ですから。モラハラなど指摘されても「理解できない」ことも予想できますね。彼女が何も言い返せないままだったら、モラハラ夫婦は継続、となるでしょう。「うつむくだけの 何も言えない私【だから】」「顔が嫌い」と続くのだろうと推測します。「あんたの顔が嫌いなだけ」他に言いようがなかった彼女の「顔が嫌い」は、この恐怖な状況への「推測的予感」であった可能性もあるのです。

この詩の中で一人称は「私」の一種類ですが、二人称は「あなた、君、あんた」と3種類出てきます。「あんたの顔が嫌いなだけ」を、直接相手に言えるかどうかに関して、あの時代背景を考えるなら「あんたで話すのは相当抵抗感がある」ではあるのです。英語に訳すとしたら、このニュアンスを伝えるのは難しいかもしれないですね!!

この歌詞は「ラブソングみたいな雰囲気だけど、誰も恋なんかしてないし、まして愛など」のすれ違い感が深く読み取れるようで、様々な「可能性の話」ができるのではないでしょうか。

時代の変化、新しい言葉や概念はめまぐるしくて、今となってはスマホがない時代の「待ち合わせ」の感覚は、想像ができなかったりするし、逆の自分は未体験の事柄も想像ができなかったりするのは言葉では頭では理解しているつもりではあるのですが。「自分の感覚を持つ」ことと「自分の感覚では測れないことがある」の両方があるのは、他の人の意見を聞いてみる実験で体感しましたよ。過去の作品を見る時に今の時代の価値観で測ると見誤ることがある「場合がある」は、古文作品だけではなく昭和作品でもあることですからね。年代によって「接する順番が違い、解析度が違う」もありますね。


そんな感じで、いろいろあるの話をしたくって、他にも、私は説を考えました。「被虐待児説」「実は親子関係を歌っている(あなたを父に、私を娘に変換すると、まんま、一方的な父と娘の思春期の親子関係)説」等々です。この文章を書く前に、ツイキャスで話して他の方の考えもたくさん聞かせていただいて、まとめてみました。私の実験(または挑戦状)にお付き合いくださったお二人と桂木さん(@mayakima)いさけんさん(@isa_kent)の3人で、ああかもしれないこうかもしれないを楽しく話せましたよ。詳細を知りたいとなった方、寄り道ばかりの長いツイキャスになりましたが、よろしければどうぞ。音声のみのラジオのようなおしゃべり大会になっております。


どれぐらい「寄り道」しているかと言うと。

ツイキャスの中で共有している動画はこちら。


私が説明できなかった「キンシャサ」はこちら。


様々に寄り道し、多重なレイヤーで、意見が違っていて、自分の意見はこう、変更もあり、正解がこれとは決めない、でも自分なりのこうするはある、そんな感じが伝わるのが「私の好きな顔(表情)」だなーと思いつつ。

今後とも自他境界系の話を続けていこうとΩ団員として考えております。

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