バンコクで留置場に入ってみました。

2002年2月のことです。
バンコクの留置場に一日だけ入っていたことがあります。
ルンピニー公園そばのルンピニー警察の留置場です。
児童買春とかドラッグとかの容疑ではありません。
器物損壊的なものを想像していただければだいたい合っています。
マイペンライの国らしくタイの留置場はなんとも和やかで、さすがに同じ部屋ではありませんが、男女の部屋が通路を挟んで向かい合っていました。
警官が留置場の入り口に現れるとき以外は、鍵のかかっていない雑居房からその通路へも出入り自由ですから、みんな入り乱れてぺちゃくちゃやっていました。
タバコも吸い放題です。
私物も持ち込み放題です。
私物といってもバッグとかその程度の物のことでテレビやタンスや冷蔵庫という意味ではありません。

僕にあてがわれた部屋は外人部屋でした。
デンマーク人のおっさんとドイツ人の不良バックパッカー風の兄ちゃんがルームメイトでした。
「なぜそんなに英語が下手なんだ?」
僕がバンコクに来る前にケアンズに14ヶ月住んでいたことを話すと、ドイツ人の兄ちゃんは不思議そうにいいました。
英語圏の国に1年も住んでいたなら、もっと英語が上手に話せるようになるに決まってるだろ。
Guns N' Rosesのアクセルか、あるいはラーメン屋の店員のように頭にバンダナを巻いたドイツ青年は、そういいたかったのです。

「君たちドイツ人にとっては英語を習得するということは、平泳ぎの選手が背泳をマスターするようなものなんだよ。しかし、いいかい?我々日本人にとって英語を学習するということは、やり投げの選手が水着に着替えて準備体操をして耳につばをつけるところから始めてようやくプールに入って背泳に取り組まなければならないようなものなんだよ。だからとっても大変なの。わっかるう?」

本当はそういいたかったのですが、それを私の英語力で伝えることには相当な困難を伴うことが瞬時に予想できましたので、
「さあ、わからない」
アジア人特有のあいまい笑いでごまかして、時間の浪費を防ぐことに成功しました。

ドイツ人はきれい好きという定説がありますが、彼はまさに定説どおりの期待を裏切らない青年でした。
トイレ込みで3畳-4畳ほどの外人部屋の床はフローリングになっていたのですが、彼はせっせと雑巾がけをしていました。
活動範囲が自分が座るところだけであったことはご愛嬌です。

ロイド眼鏡を四角くしたような太い黒縁の眼鏡をかけたデンマーク人のおっさんは、とてもにこやかで柔和なおっさんでした。
差し入れの飲み物を分け与えて手なづけたタイ娘と手をつないで通路に座り込んでなかなか楽しそうでした。
しかし差し入れに来た男と何か激しくやり取りしていましたから、相当ストレスがたまっているようでもありました。
僕はデンマーク語は皆目理解できませんから何をいってるかはまったくわかりませんでした。
後になって考えるに、もしかすると彼らは英語で応酬していたのかもしれません。
私の英語力はその程度です。

僕が留置場に連れてこられたのは夜の10時か11時ごろだったと思います。
部屋がいっぱいだったのかもしれませんが、コンクリートの通路しか空いている場所がありませんでした。
そのあたりに落ちていた新聞紙をしいてその上で寝ることにしました。
常夏の国ですから特に悲惨な状況ということではなかったです。
むしろひんやりして気持ちがよかった。
夜中に赤ん坊を抱いたタイ人の若い母親が留置場に入ってきて目が覚めたことを覚えています。

書いているうちに少しずつ思い出してきました。
外人部屋に収容されたのは朝になってからです。
僕は一晩中、通路のコンクリートの上で寝ていたのでした。
さすがに朝起きると体が痛かったです。
いくらひんやりとして気持ちがいいといっても、前の晩まではジュニアスイートの広いベッドで寝ていたのです。
僕が鈍感でも、幸せな目覚めを迎えるわけがありません。
(普通の部屋を予約していたのにホテルの人が勝手にアップグレードしてくれました)

午前中の早い時間に在バンコク日本大使館の男が二人、ルンピニー警察に来ました。
書記官と参事官、という組み合わせでしょうか。
下っぱの方の男は昨夜から顔を知っていました。
僕が逮捕されたところは日本大使公邸のそばでした。
大使公邸を警備している警備会社からの連絡を受け、下っぱが慌てて車で駆けつけてきたのでした。
「日本人は日本人同士助け合っていきましょうや」
駆けつけてきた大使公邸前で、青いポロシャツを着た下っぱ男はなれなれしく関西弁で話しかけてきました。
海外で日本人を見かけると反射的にむかつくものですが、不思議なことに、特に関西人を見るとそのむかつきが倍増されます。
私も自分が関西人でありながら棚に上げていわせていただきますが、関西人は日本人の中でも群を抜いてうざいです。
したがって私も他人から見れば相当うざい存在であると思われます。
謙遜ですけれど。

駆けつけてきた下っぱ男は警察にタイ語で、
「この男は頭おかしいから」
僕のことをそう説明しているようでした。
タイ語が理解できるわけではありませんが、身振りでわかります。
いきさつを何も知らなければそう思われても仕方ありません。
「頭がおかしいから許してやってくれ」
そう頼んでくれていたのかもしれません。

実はこの下っぱ男には見覚えがありました。
その2,3日前、日本大使公邸前の道路にスーツケースが置きざりにされていました。
不審物ということで警察が集まっていたときに、この男がその傍らにいました。
携帯で誰かに状況を報告していました。
その光景を繁華街に向かうために通りかかった僕は見ていたからです。
もちろんそのときにはこの男が日本大使館員だとは知りませんでした。
日本人かタイ人かも定かではありませんでした。

僕がバンコクに来る時、前の国の空港でチェックインの際に、少しむかつくことがあったのでCDがたくさん入ったスーツケースを空港で捨ててきました。
そのスーツケースがバンコクの路上までワープしてきたのかと思ってしまいました。

さて話は戻りますが、そのタイ人のようによく日に焼けた下っぱ男が一晩明けて、上司らしき男を伴いルンピニー警察に来たのです。
その日は昨夜のなれなれしい態度とは違い、上司Aの隣でスーツを着て緊張しながら神妙に座っていました。
上司Aが僕にどんな話をしたかは覚えていません。
眠たくなるような話だったことだけは覚えています。

覚えているのは、僕が自分から主義やスタイルを改めなければ何も現状を変えることはできないということを僕に自ら思わせるように仕向けることを目的とした、狡猾なこのワンフレーズだけです。
「それじゃあ、何にも解決しませんよね」

留置場の中ではここの長期滞在者らしい二人のタイ人が、他の留置されている人たちの世話係のようなことをしていました。
彼らはフレンドリーで大変親切でした。
打算のない気遣いにとても人柄のよさを感じました。
おそらく日本の留置場であれば警官がしなければならないようなことまで彼らが代行していました。
時々留置場の入り口に警官が現れると、通路でぺちゃくちゃおしゃべりをしている住人たちを羊飼いのようにそれぞれの部屋に追い立てます。
警官はしばらくの間、椅子に座ってタバコを吸い、飲み水を入れた青いポリタンクからコップで水をすくって飲み、申し訳程度の監視を済ませると、タバコの吸殻を鉄格子の隙間から留置場の内側に落とし、去っていきます。
世話係がそれを拾い上げゴミ入れに捨てます。
横柄な警官が留置場の入り口に座っている間、かわいそうに世話係の二人は留置場の内側でずっと立っていなければならないのです。

「マリファナでつかまった」
君はなぜここにいるんだ? 
そうたずねた僕に世話係の一人はいいました。
「お金がないから、ここから出られない」
マイペンライ度100パーセントの笑顔を見せながら、彼は長期滞在の理由を説明してくれました。

「エンバシー、エンバシー」
この日2回目の雑巾がけをしているドイツ青年の隣で壁にもたれてうつらうつらしていると、マリファナでつかまった世話係が自分のことのように興奮気味に僕に近寄ってきていいました。
夕方になってまた日本大使館員が来たのです。
朝と夕方に来るなんて、バンコクの日本大使館員は副業で新聞でも配っているのでしょうか。

こんどは上司Aがさらにその上の上司を連れて来ていました。
仮にここではこの新たな登場人物を上司Bと呼ぶことにします。
上司Bは役職としてはどの程度でしょうか。
参事官の上なら副領事ぐらいでしょうか。
最初からこいつが来れば話が早いのですが、何かともったいをつける連中です。
もったいをつけて自分や自分たちを大きな存在であるかとでも思わせたいのでしょうか。
上司Bは無礼なことに面会室で僕の写真を撮って帰りました。
カメラを持つ手が緊張で震えていました。

バンコクに来る前に住んでいた国の地方の街の日本領事館は20代半ばの若い女が副領事でした。
「はあ?なんで俺があんたに会わなければならんの?」
そういいたくもなるそのありえないブスが、ただでさえひどいブスが、副領事という肩書きを持ち出せば何でも思い通りになると思っているその脳みそすっからかんのくそまみれのどブス女が、何様のつもりか横柄な態度で接近を試みてきた不愉快な記憶があるので、副領事と聞いただけでむかつくのでした。
しかし上司Bがはたして副領事か否かであったか正確なところは知りません。
下っぱ書記官も参事官も副領事も、あくまで僕が勝手にそう呼んでいるだけです。
もしかすると全員、時給75バーツで大使館の雑用を請け負っているフルキャストの派遣バイトだったのかもしれません。

再び留置場に戻されてタバコを吸いながらぼんやり周囲を見渡していました。(私は20年前に断煙しましたので現在は非喫煙者です)
外人部屋は留置場の入り口に一番近いところにあるので、部屋の中にいる限りあまり奥の様子はわかりませんでした。
奥の方の部屋からアラブ系の男が退屈なのか、留置場の入り口の方に遠征してきました。
彼としばらく話をしました。
旅行者ではなくタイに住んでいるということでした。
だから外人部屋ではなくタイ人と同じ部屋に収容されていたのかもしれません。
何の話をしたかは覚えていませんが気のいい男でした。

マリファナでつかまった世話係とは別の、もうひとりの世話係はいつも上半身裸でトランクスをはいていました。
ルンピニースタジアムのキックボクサーのようでした。
奥の部屋の方から若い男がやって来ました。
右手の人差し指の先に米粒大の白いクリームのようなものを乗せていました。
それをETの名場面のように器用にキックボクサーの指先にパスしました。
キックボクサーはその指先をトランクスの中に差し入れ、何かもぞもぞやっていました。
まぎれもなくインキンタムシの薬と思われました。

イラストで留置場の間取りやそこで生活する人々の生態を面白おかしく紹介して、

「世界中で留置場に入ってみました」

というタイトルをつけた本を出版すれば間違いなくベストセラーになるだろう。
あと30か国ほどまわって、行った先々で2泊3日ずつ留置場に泊めてもらえば文才がない俺でも書けないこともないな。
50万部売れたとして印税は少なくとも手取りで5000万円以上にはなる。
その金でヨーロッパの田舎で若くてかわいい金髪娘と猫でも飼ってのんびり暮らせたら最高だ。
しかしそれだけの数の留置場めぐりをするのは最低でも100年ぐらいはかかりそうだ。
そのためには長生きすることが必須となってくる。
そうだ今日からタバコをやめねば。

暇なのでそんなくだらないことを考えていました。

高度な政治判断という言葉がありますが、日本大使館員とルンピニー警察のあいだで、それとは対極の低度な政治判断が交わされたことは想像にがたくありません。
大使館員が帰ってからしばらくして僕は留置場から出されました。
せめてもの感謝の気持ちをこめて、マリファナでつかまった世話係に半分ほど残っていたタバコの箱を無理やり渡してきました。

留置場から出ると手錠をはめられ、オフィスの方に連行されました。
オフィスにはほとんど誰もいませんでした。
隅っこにある20代半ばと思われる若い警官のデスクまで誘導されました。
途中に通ったオフィスの壁にターバンを巻いた端正な顔立ちのアラブ人男の人相書きが貼ってありました。
写真ではなく似顔絵でした。

僕は若い警官と机を挟んで向かい合って座りました。
もちろんまだ手錠はつけていました。
彼はいろいろ書類を作りながら、僕に説明しました。
この若い警官には別に横柄な雰囲気はありませんでした。
ごくごく普通の穏やかな若者でした。
前の夜に僕をパトカーでルンピニー警察に運んできた警官にもどこか親しみやすいところがありました。
街で話しかけた警官たちも皆フレンドリーでした。
留置場担当の警官だけが何だか偉そうだったのです。

若い警官の話を簡単にまとめれば、要点は二つだけでした。

罰金を払えばこの場で釈放できる。
レコード(記録)にも残らない。

とても不可解なことをいっているように聞こえるかもしれませんが、僕には鬱積したものがあり、大げさですが世界に向けていろいろぶちまけたいことがありましたので、罰金を払っただけでかんたんに処理されなかったことにされることには、正直抵抗がありました。
しかしタイの女の子はとてもかわいらしく、記録に残って万が一タイに再入国できない事態になってしまうことは避けたいところでした。
僕の頭の中で、こちらはまぎれもなく高度な政治判断がその刹那、下されました。

「オッケー」
僕は若い警官の提案を受け入れることにしました。
しかし、肩にかけたカバンの中の財布にはわずかな現金しか入っていないことを知っていました。
「今、全然キャッシュ持ってないんだけど」
「ATMで降ろして来ればいい」
「自分で行って来ていいのか?」
「イエス」
さすがマイペンライの国です。
警官は僕を警察署の玄関に連れて行きました。
「あれに乗っていけばいい」
手回しのいいことに署の前にバイクが用意されていました。
傍らに若いライダーが一人立っていました。

バンコクには人々の交通手段として街のあちこちにバイクタクシーが待機しています。
彼らは道路工事の脇で立っている警備員が着ているような、おそろいのベストを着ていますのですぐにわかります。
「一人で?」
警官はうなずきました。
警官は付き添わないというのです。
一人で行って来いというのです。
このまま逃げたらどうするんでしょうか。手錠したまま逃げるわけはありませんが。
このようないきさつで、僕は一人で手錠をしたままATMに向かうことになりました。
ATMまで象に乗せられて運ばれるよりは幸せなことだと感謝しなければなりません。
以下マイペンライの国の豪快さを思う存分お楽しみください。

あらかじめ警官から指示を受けていたのでしょう、僕がバイクの後ろにまたがると何もいう必要もなく発進しました。
バイクタクシーのお兄さんも珍しいものを見ることができて何だか楽しそうでした。
数分でATMにつきました。
手錠をしたままATMでお金を降ろしたことのある方ならわかると思うんですが、そんな人が地球上に私以外に存在するとは到底思えませんけれども、あれは実にやりにくいものです。
まず肩にかけたバッグを開けることにひと苦労です。
バッグの中から財布を取り出すことにまたひと苦労です。
財布の中からキャッシュカードを抜き取ることにさらにひと苦労です。
それでも何とか財布からキャッシュカードを取り出し、現金を引き出すことに成功しました。
はっきり覚えていませんがファイン(罰金)は確か日本円で2-3万円ぐらいだったと思います。
午前中に参事官からさりげなく口座の残高について聞かれたことを思い出しました。
そういうことで話がついていたのでしょう。
夜になりあまり目立たなくなっているとはいえ、手錠をした外人がバイクから降りてきてATMの前でごちゃごちゃやっているのですから、地元の方々にとって面白くないわけがありません。
日本とは違いアジアやヨーロッパの国では、一般的にATMはビルやモールの壁に直接埋め込まれています。
人目をさえぎるものなどありません。
ATMに向かい、曲芸か悪霊退散の儀式でもやっているかのようなしぐさで奮闘する僕を見て、通りかかったタイ娘たちがくすくす笑っていました。
とてもかっこわるかったです。
この状況下においても、
「ハーイ」
と手錠を振り回しながらナンパに励むようであれば私もたいしたものだと思うのですが、それどころではありませんでした。

お金を降ろすと同じバイクタクシーでルンピニー警察に戻りました。
もちろんバイクタクシー代は自腹です。
出発したときと同じように、署の玄関に立ったまま若い警官は待っていました。
オフィスに戻ってファインを払うと警官はすぐに手錠をはずしてくれました。
「僕のホテルはどっちの方向?」
玄関まで見送りにきた警官に尋ねました。
「こっち」
彼は右方向を指しました。

服はひどく汚れていましたが、ホテルに戻らずに僕はそのままマッサージパーラーに直行しました。
広い部屋でバスタブの中でくつろぎながらタイ娘に体を洗ってもらっていると、ほんの1,2時間前まで自分が留置場にいたことがとても遠い昔のことのような気がしました。

それからホテルに戻り、着替えて、昨夜と同じところへ行って同じことをしようと思い冷蔵庫からビール瓶を2本取り出し、ビニール袋に入れてホテルを出て歩いていると、進行方向左手に怪しげなパブがあったので入りました。
1、2時間ほどのち、そこのパブの若い女の子を連れてホテルに戻りました。
しかし明るいところで見ると、けっこう年もくってるしまったく好みのタイプではないことが判明しました。
服を脱がせて裸にしてみましたが、何ら興味がわきませんでした。
したがって何もせずに朝まで同じベッドで寝ただけでした。
私には酔いが醒めた明け方ごろから活発に活動する習性があるのですが、朝起きてもやはり何の興味もなく、ほとんど会話すらせず服を着せて部屋から送り出しました。
通常はタクシーを拾うまで見送ってあげるのですがそれすら面倒でした。

その日の夕方、そのタイ娘が道端の屋台で一人でご飯を食べていました。
朝、部屋から送り出した時とは違い、髪を白人女のように赤く染めていました。

それにしても2-3万円程度というファインの金額は絶妙でした。
あれがもし日本円で5万円ほどを提示されていたならば、私は迷わず留置場に残る方を選んだことでしょう。
ケチな私はそんな大金を払ってまで釈放されたいとは思わないからです。

バンコクにはけっきょく2週間ほどいて、いったん日本に帰りました。
日本までのティケットを紛失していたので、再発行してもらうためにシンガポール航空のオフィスに赴きました。
ホテルのプールでそばにいたフランス人の女の子たちが口ずさんでいたマドンナのlike a virginが数日間、耳から離れませんでした。
それもあって、もう少しバンコクに滞在できるよう飛行機の日にちをずらしてもらうべく頼んでみましたが、断られました。
ティケットを買った代理店では日にち変更ができるといわれていましたので、何だかさっさとタイから出て行ってほしいと思われているような妄想にとらわれました。

あのルンピニー警察の壁に貼られていた人相書きのアラブ男が、

「ウサーマ・ビン・ラディン」

という名前であることを知ったのは、それから約7ヶ月後の9月半ばのことです。
CNNに朝から晩まで顔と名前が出ていましたのでわかりました。
とても寒い国のロシア人地区にある団地に住み始めて5ヶ月ほど経った頃でした。

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