貴方がもう一度筆を持ってくれますように

僕が絵を描くことが出来なくなって早、三年。
時の流れとは速いもので誰も僕のことなんか覚えていなかった。三年前、突如いなくなった画家として、新聞にでかでかと出ていたのに三年という時はやはり長くそして、覚えている人はいたのかもしれないが記憶の片隅にある塵みたいな扱いになるだろう。
ーあの時、突然筆が持てなくなってしまった。妻を亡くしたからなのか、それとも私のことを慕ってくれていたたった一人の友人が火事で亡くなったからなのか。もう、理由なんて覚えていない。むしろ、どちらともなのかもしれない。今は、ただ一人空っぽになってしまった大きい家に一人、寿命が尽きるのを待っている。妻が亡くなって家事を初めてやったあの頃よりかは、バタバタした日常はもうなく、ゆっくりと、ゆっくりと時間が過ぎていくのを待っている。…三年前のあの日、妻が最後にいってくれた口約束も未だに達成できない僕がこのまま命が尽きるのを待ってよかろうか?そんなことを頭で考えてもやはり、筆を持つことが出来ないままだった。

妻が亡くなって四回目の今日、私は近くの教会に行った。毎年、妻の命日には教会に行くようにしている。今日は祈りを捧げている人はほとんど居なかった。平日だからだろう。それに雨も降っているから…
 祈りを捧げていると一人の若いシスターが僕に話しかけてきた。金髪おさげ髪で、目は藤のような色の淡い目をしていた。あまり、見ないような顔のシスターだと思ってしまった。少なくとも去年はここに居なかっただろう。

「貴方はどうしてここに祈りを捧げにきたのですか?」

「…妻の命日にはここに来るようにしているだけさ。あまり見かけない顔だね。去年からこの教会に努めているのかい?」
シスターは柔らかい声でこう答えた。
「…………えぇ、そうです。今日はいい天気ですね?」
そういって、シスターは窓を指差す。雨が降っていて曇っている。とてもよい天気とは言えない…それでも、シスターは天気がいいと言う体で話を進める。

「今日みたいに天気が良い日は外に出て、ピクニックでもしたいですね。そう思いませんか?こんなに天気が良いなら…そうですね、なにか楽しいことでもしたくなりますね…例えば、絵を描くとかですかね…?」

「シスターさんは絵を描くのですか?」

「いいえ。描きません。」

「じゃあ何故?絵を描く以外に他の事があるでしょう?」

「例えばなんでしょうか?」

「…例えば、ピクニックなんだからサンドイッチを作るとか日向ぼっこをするとか…絵だけではなくて他の事に時間を費やしますね。…まぁ、最近はピクニックなんてしないですけど」
 妻が亡くなって、もうピクニックなんてしなくなった。使わなくなったピクニックバスケットはもう家の倉庫の奥深くにしまってしまった。シスターが複雑そうな顔をしながらこちらを見ている…やはり、生きていて楽しいと思っていそうな顔をしているシスターには僕は邪みたいな存在だろう。仕事として僕に話しかけてるだけで休日になったら多分目障りな目で視てくる輩にしか過ぎない。
 シスターは気の毒だったのか話し始める。

「…一人でもピクニックはしていいんじゃないですか?亡くなった奥様としかピクニックしないのが貴方の掟なのですか?」

「別にそういう訳じゃ……!」
シスターは真剣な眼差しでこちらに目を合わせようとする。

「貴方はまだ時が止まったままのように視えます。『奧さん』という記憶の中にまだ貴方は居るままです。そして、友人を亡くし、また他の友人を作ろうとしない…浅はかでただ時を待つ悲しいお方にしか私は視えません。」

「……じゃあ、どうしたらいいのでしょう?シスター。」
つい、シスターに聞いてしまった。浅はかだなんて言われて悔しかったから…
シスターは、天使のように微笑んで僕に目を合わせた。
「簡単ですよ。…懺悔するんです。貴方が次の場所に行けるように。貴方が寿命が尽きるのを待たないように。……そして、貴方がもう一度筆を持つことが出来るように。願いましょう。懺悔しましょう。」

「…貴方も懺悔するですか?僕の願いなのに」

「えぇ。懺悔します。私と貴方の願いと懺悔ともに……神の御加護を願って…神の助言に身を任せて……願いましょう。」

「えぇ…そうですね……」

シスターと僕は神に手を合わせた。また、新たな道へ進めるように…

 「雨が止みましたね。とても晴れていい天気になっていますよ。」

「そうですね。ありがとうございます。シスター。僕の話を聞いてくれて。」

「ふふっ。いいのですよ?皆様の話を聞いて一緒に願うのが私…シスターの役目ですから…」

「それでもうれしいのですよ。こんな老人の話を聞いてくれて、こんな落ちこぼれの話を聞いてくれて…」

「ふふっ。やっと目が醒めましたね。良かった。醒めてくれなかったらどうしようかと思いましたよ。」

「有難う。本当に有難う。…………そういえば、どうして私が画家をしていたと分かったのですか?」

「……………ふふっ。さぁ、どうしてでしょう?…もう、貴方の心は清らかになりましたよ。もう此処に来なくたって良いんですよ?」

「ははっ。なにを言いますか…また、次の年の命日にまたこの教会に来ますよ…」

「……………そうですか。あの、一つお訊きしても良いですか?」

「なんでしょう?私で良ければ答えますよ。」

「……貴方の奥さんと交わした約束はなんだったのですか?」

「あぁ…その事ですか?それは…『妻が亡くなったあと絵を一枚描きあげる』という口約束です。…妻のその口約束を何回も挑戦しましたがやはり、納得いくものが描けないままでしてね。友人の所に住まわせてもらって何かアイデアが浮かぶかと思いましたけど…全て燃えて失くなってしまいましたよ。…跡形もなく。」

「…そうだったんですね。お気の毒に…」

「そんな、心配そうな顔をしないでくださいシスター。貴方のお陰でもう一度筆が持てそうだというのに…」

「本当ですか?絵が描けたら見せにいてください。一年かかっても何年かかっても良いですから…」

「大丈夫ですよ。もう構図は決まっています。後は、キャンバスに筆を下ろすだけ…」

「それなら良かった。…そろそろ時間ですよ。お爺さん…」

「本当だ。また来ますよ。さようなら、シスターさん。」

「えぇ、さようなら。」


 二人は自分の居場所へと帰っていった。

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