私見89

1年で1番好きな6日間が始まる。
当然のように天気は晴れ。ありがとう。
歳を重ねる毎に晴れが好きになっていっている。
これからも晴れが好きでいられる人生であってほしい。

昨日はクリスマスにも関わらず、クレジットカードをATMに忘れて利用停止及び再発行が必要になった。
再発行は1月の15日になるとのこと。悲しい。
それまでは現在の手持ちのお金で生きて行くしかないが、幸運なことに元旦には帰省の予定があり、不幸なことに元旦までに出費の予定もないので傷は浅い。
往復の新幹線の切符を買っていた自分を褒めたい。

「褒めたい」という前向きな述語の勢いのまま、出社のために自転車のロックを解除する。

カチャッ

小気味よい解除音を聞き、自転車を漕ぎ始めた。
緩やかな上り坂となっている三条通りを真っ直ぐ進む。
家から2軒目の普段使いしているドラッグストアの前を通り過ぎる。
帰りに洗顔料を買わなきゃいけないことを思い出す。
生活を行う上で必要なことに気付けたとき、幼少期に想像していた「大人」になれている気がして嬉しい。
そういえば、今日はお米を炊く日でもあった。故に比較的早く帰りたい日。

三条商店街に差し掛かると、所在無さげなイルミネーションが目に入った。
全員が疲労困憊朝帰りの顔つきで嬉しい。
見る人が見れば労いの短歌のタネにでもなるのかしら。

そんなこんなで赤信号を眺める時間込みで20分の通勤路を漕ぎ切る。
来年の私のための仕事をこなすために事務所入口へセキュリティカードをかざした。

「おはようございます」


時は流れ


「お疲れ様でした」

そう呟きながら事務所を後にした私の顔はおそらく非常にどんよりした面持ちだったに違いない。
予定より遥かに遅れた退社時刻。
特に、上司の取り止めのない話を聞く時間が体感5時間ほどあったのは堪えた。
普段は話半分に聞きながら作業をするのだが、なぜか私のPCをジャックしながら話すものだから完敗である。

私の好きな6日間の初日がこれでは私が可哀想。
はやく家に帰ろう。

自転車のロックを解除する。

ガキッ

いつもの小気味よい音と違う。
鍵の差し込み口を見ると、キーホルダーの金具部分を巻き込んでしまっており、鍵が固定されるでも解除されるでもない状態となっていた。
誰もが皆「何もこんな時にこんなことにならなくても」と思ったことがあるだろうが、完全にそれである。
6分ほどの格闘の末、キーホルダーの金具部分を歪めながら鍵の救出に成功。
この6分が平時の6分とは一線を画すことだけは書き記しておきたい。

カチャッ

いつもの小気味よい音を聞いて、自転車を漕ぎ始める。
帰りは緩やか下り坂であるため、帰りたい気持ちも相まって自然とスピードが出る。
だからこそ、気付くのが遅れたのだろう。
普段使いしている1軒目のドラッグストア(行きの時には「2軒目のドラッグストア」と記載)を通りすぎたことに。

せっかく洗顔料のことを思い出してくれた朝の私に申し訳が立たない。
次のドラッグストアに自転車を停め、洗顔料コーナーを探す。
普段使いしている場所であれば一目散に目的の場所まで行けるのに。
やっと見つけた洗顔料コーナーに、「泡タイプ容器専用 ハトムギ泡洗顔」は待っていなかった。
無論、「泡タイプ容器専用 ハトムギ泡洗顔」は私の愛用洗顔料である。
断腸の思いで下の上みたいな格の洗顔料を手にとる。
泡洗顔とはしばしのお別れである。
だが、今宵も洗顔ができることが重要である。
早く帰ることを優先せずに、洗顔料を購入した自分を褒めたい。

「褒めたい」という前向きな述語の勢いのまま、帰宅のために自転車のロックを解除する。

カチャッ

よし、生活を立て直せた。
先ほどよりゆっくりとした速度で自転車を漕ぐ。
余裕が出てきたのか、視界も開けている。
年末の空気を堪能しなきゃ損である。
周りを見よう。深呼吸をしよう。

無事に駐輪場に辿り着いた。
無事に駐輪場に辿り着いた私のポケットの中には、
家の鍵がなかった。

事実は小説よりも執拗なり。

一夜に鍵のトラブルが2件も?
だから鍵屋が生計を立てていられるのか。
そんなことより今日の私の問題を解決したい。
鍵屋は24時間営業なのだろうか。
どの程度の時間で対応可能なのだろうか。
価格は?
そもそも鍵屋って?

待って。

価格は…?
お金もおろせずクレカも使えない私が支払える金額なのかしら。
そもそも外泊が必要になった場合はそのお金は?え?
半年前に引っ越してきた私を泊めてくれる者はいないという事実も不安に拍車をかける。
どうしよう。どうしよう。

アパートのオートロックドアの前で佇むこと数分間。
どのポケットの中を探しても無い。
冬場は容疑のかかるポケットが多くて困る。
容疑者は私1人なのに。

もう諦めよう。無いものは無いから。
高校時代のテスト前のメンタルになってきた。
心の奥底では不安まみれではあるが、外ズラ虚勢用のハリボテの余裕。
そのハリボテの余裕が、私の視界を少しばかり広げた。

今まではオートロックドアとその右手にある解除用の機器のみしか見えていなかったが、左側の景色も見れるように。
そこには、「落とし物です!!」と上手な文字で書かれた紙とこのアパートの鍵が貼り付けてある。

年の瀬に触れる人の優しさ。心からの安堵。感謝。
私はゆっくりと近づき、鍵を手に取ってオートロックのドアを開けた。
エレベーターに乗り、7階へ向かう。

1階から7階へ向かうその数秒間に違和感に気付く。

「鍵の手触りってこんなんだっけ?」

オートロックが開いたことでアパートの鍵であることは確定したが、未だ私の部屋の鍵であることは確定していないことに気付いたのだ。
よく見ると、見覚えのない文言も書いてある。
違和感だらけである。見た目こそ似ているものの。
何?この鍵。鍵か?少なくとも今まで持ったことがない鍵な気がしてならない。

そしてエレベーターは7階へ到着。
半ば諦め気味で自分の部屋に鍵を差し込む。

ガチャリ

重厚な音と感触が、鍵が開いたことを私に教えている。
違和感は全て気のせいだったのだ。

再度胸を撫で下ろした。ここからは普段の生活。
コートと荷物をリビングに置き、夕食作りに取り組む。
今晩の献立は豚バラ大根とほうれん草のおひたし。
ほうれん草のおひたしは昨日の残りだから豚バラ大根を作る。
我ながら、疲弊し切った体に優しい献立である。

好みの大きさに切った豚バラと大根をゆっくりと煮込む。
余裕を取り戻した私は夜遅くとも30分程度煮込むこともできる。
鍵を無くしたかと思った話をLINEで友達に報告。
こういう時の友達のありがたさ。
Twitterでは本当に心が揺れた話はしない人間でありたい。

30分程度が経過し、豚バラ大根を皿に盛り付ける。
黒胡椒や七味も用意済みである。
ほうれん草のおひたしも冷蔵庫から取り出す。
追加の鰹節も用意済みである。


思考のホワイトアウト


-そういえば、今日はお米を炊く日でもあった-


数年間の一人暮らしで初めて、お米を炊くことを失念していた。
今思えば、私の脳のキャパは完全にオーバーしていたのだろう。
30分も豚バラ大根を煮込む前に早炊きをしていれば、今頃優しい夕食にありつけていたのに。

惨めな気持ちと悴んだ手で米を研ぐ。
本当に偉い。本当に偉いよ。
幼少期には想像できなかった「大人」の姿がここにはある。

お米を炊いている時間も無駄にはしないよう、シャワーを浴びることにした。
もうこれ以上生活が滞ってたまるか。少しでも効率的に。

いつも通りパジャマとタオルを用意し、脱いだ服を洗濯機に投げ入れる。
シャワーから上がる頃にはお米も炊けているだろう。
ビールも飲もう。今日は色々なことがありすぎた。
LINEやTwitterでは伝えきれない悲哀ばかりだ。
私の友人も私の知らないところで色々な悲哀があるに違いない。
それは知らなくてもいいし、話してもらったなら聞こう。
自分じゃない人のことは、何も知らないところから始まって、少しずつ教えてもらうことで知っていくという当たり前のことを改めて考える。
教えてもらったこと以外知らないということ。

シャワーの水がお湯に変わる。
全身にお湯を浴びると一気に心身が温まる。
その次の瞬間、一気に肝が冷えた。


洗顔料、リビングに置いたままだ。


鏡に映る、全身びしょ濡れの裸の男。
その、表情。


この表情を伝えたくて書いた文章でした。
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。




優しさと焦り

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