「ソシオ 機能の次元の質問リスト」Ti(内向論理)
だいぶ期間空きましたが再開です。
Tiやってみました。
引用面倒になっちゃった、今回から辞める🤣
法則→事例
ぱっと思いついたのが慣性の法則なのでこれでいく✋
法則:外部から直接力を与えられない限り、
静止している物体は静止し続け、
進む物体は進み続ける。
具体例:自動車で直進中、急ブレーキをかけると車体には静止するための力がかかり、静止する。
対して、車内に乗っている人間は直進し続けようとするので静止している車体に対して、進行方向へ向かって傾く。
具体例→一般化
事例:見た目は同じでも音質の良いヘッドホンは価格が高い
一般化:音質良いをノイズが少ないと定義する。
ノイズを除去するには高品質な部品を使用する必要がある。
高品質な部品は低品質の部品よりもコストがかかる。
同じ生産方法を用いた場合、高品質な部品を用いてヘッドホンを生産する際には、低品質の部品を使った場合と比較してコストを抑えるのが難しくなる。
売値もそれに比例して高品質な部品を用いたヘッドホン>低品質な部品を用いたヘッドホンになる傾向がある。
つまり、音質の良いヘッドホンは価格が高くなる。ただし、価格の高いヘッドホン=音質が良いとは限らない。
論理的=理にかなっていることだと思ってる。
一般的に言われている「定義」とは
概ね一致しているのではないかと思う。
が、体感として、一般的に「受け入れられてる」の視点で見ると少しズレはあるかもしれない。
世間では論理的=説得力があるみたいな風潮があるように見えて、そこには違和感を覚えている。
実際のところ、何を元に構築されている論理なのか?によって妥当性は変わるし、
論理的はあくまで物事の組み立てや
処理する際のスタイルの話であり、
核となる「内容」と直結するとは限らない。
単なる表現方法であると思っているため、
論理的であるかどうか?だけでは
考えや発言の内容を精査できない。
内容よりも論理的かどうかに重きを置きすぎている風潮があるように見える。
たとえば「沖縄の冬は暖かい。なぜならば気温が10度を下回ることがほとんど無いからだ。本州の冬は気温10度以下である日が大半を占めるため、沖縄の冬は本州の冬と比較すると暖かいと言える。」これは表現としては「論理的」であるが、正しさを証明するには気温の情報がどこから持ってきた情報なのかを精査する必要がある。
この情報だけでは信憑性が高いとは言い難い。
(かといって、信憑性が低いとも言い難い)
ただ、世間ではこういう表現の仕方をすればあたかも信憑性の高い情報であるかのように扱われるケースが多く、前述の通り、論理的=説得力があるのような風潮である印象を受けていて、この感覚に違和感を覚える。
自己認識では、論理的になっている自覚はあまりない。
意識して論理的であろうとしているつもりもあまりないため、「そうでもない」と言いたいところだが、
他者からそういう指摘を受けることがあるのでそういう面も踏まえると、
ある程度の論理に基づいた話の組み立てや判断をしている場面は割とあるのもしれない。
階層=自称や物事の構成や前後関係、位置を特定するための分類のような認識。
ヒエラルキーは適切に階層付けや役割り配置がされている場合は、どのエリアに居る人が何をするか明確になる。
かつ、あるべきところにあるべき人が配置されるので、従うことによりパフォーマンスの向上や全体最適が見込めるというメリットがあるのでは無いかと思う。
システム階層の例は、物の開発で例えると。
企画→検討→設計→試作→実験→生産→販売
など、完成に向かって工程が存在する。
これらの構成を元に、どのエリアで何がなされているのかを見える化し、作業の重複や抜け漏れ無く開発を進めることが出来る。
フォークは物体、カトラリーは物体そのものではなく、ある共通要素を持つ物体をまとめて指す分類項目、という認識。
関係性はグループ名とそれに所属する物体。
情報の構造化=物を認識する際に、ある程度は行っていると思う。
目的=出したい時にピンポイントで情報を出すことができるようにする。
得た情報や頭の中がごちゃつかせないため。情報を整理のために行う。
どのように?=頭の中で自然にそうなってることもあれば、マインドマップや図、キーワードをピックアップして意識して整理することもあるし、人と話しながら整理していく(話しながら自然に整理されていく)こともある。
所感
倫理の時よりも絵文字が減った🤣🤣
体感としてはそこまでしんどくは無いけど、別に楽しくはない。
質問の取っ掛りやどういう切り口で行こうか?悩む所もあった。
自分はこう思うけど…が割と明確にあって、他の人はどう答えるんだろう??って興味が湧く話題ではあるかも。
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