PureJapanese個人的解釈

※めっちゃくちゃネタバレしてるので
したくないひとはいますぐかえってくれ


人間は「余所者」には排他的な行動を取りやすい。同じ場所で暮らし言語が一緒でも例えば見た目が見慣れた定義と違うルーツの人や、コミュニケーション言語の異なる人には特に顕著である。

言うまでもないが、日本という国は江戸時代が終わるまで鎖国して来た島国だ。

現在でも単一民族国家として在るのが「普通」なので、前述した「余所者」には慣れていないし、見た目に自分とは違う人が日本語を話していたらまず「日本語お上手ですね」なんて言ってしまいがちだ。

その人のルーツがどうであれ、国籍が違ったとしても日本で生まれ、育ち、思考言語が日本語であるなら国際法以外の理由で「日本人ではない」とはたして言えるのだろうか?

そもそもの○○人であるという定義とはなんなのか。

筆者の私は日本人だ。アイデンティティとしてそう思っているし、国籍も日本だし、少なくともずっと先祖を遡っても"わかるところまでは"日本で住み育ち生活していた人たちだ。

ではそのご先祖様のなかの誰か1人でもどこか違う国の人だったらどうなのか。アイデンティティとして揺らぐのだろうか、と考えたときに胸を張って言えるだろうか、「私はピュアジャパニーズだ」と。

ヨーロッパ圏に遊びに行くと、現地の人に「中国人か?」と聞かれたことがある。「日本人ですがなにか?」と答えると、向こうが「悪かったな」と謝ってくれた経験がある。

己が端っから「異質である」と認識される出来事なんて日本に生まれ育ち日本から出なきゃそうそうないと思う。

たった1週間の旅行に出かけただけでこんな質問を見ず知らずの人に投げかけられた経験は、この映画を観るためにとても役に立った。

彼の経歴はGoogle先生やWikipediaに補足してもらうとして、プロデュース・企画したディーンさんはきっともっとずっと異質な扱いをされたはずだ。

だから立石が異質な扱いを受ける度に過去のディーンさんを思って彼のファンの私は苦しくなる。

でもそれと同時にその経験を昇華してこのPureJapaneseという作品にエンターテインメントとして落とし込んだ彼をファンとして誇りに思うのもまた確かだ。

幼い頃の立石はアメリカに住んでいて、排他的な「花火禁止の場所」で暮らしていた。禁止されたものを"大切な文化でありルーツだ"と母が語ってくれた側で指にまで火が到達しても気付かない位に線香花火の美しく儚い光に魅了され、その熱さを忘れられなかった。

そしてその後日本で暮らすことになったが、立石がいくらアイデンティティを行く先々で確立しようとしても周りに拒絶された。

アメリカで暮らし英語で歌を歌う立石には、同年代の子供さえ冷たかった。アメリカでもそうだったのに、また日本でも余所者扱いされる。いじめを受け、きっと何度もあの太陽を反射した激しい鏡の光を当てられたことは想像に容易い。

そして光の眩しさに目がくらんで反動で突き飛ばしてしまった結果、虐めてきた同級生を殺したか、少なくとも意識を失わせてしまった(確実な殺人描写がないので断定が出来ない)。

「日本人じゃないだろ、証明して見せろ」と言われ反抗したら相手に罰が下った。これは日本人としての証明を神が与えたのだ、と思ってもおかしくはない。そしてその出来事を「己が日本人である」ということを信じるための心の拠り所にするのだ。

それでも結局己だけで信じるのは限界がある。
こんなことをしてしまった自分は存在して良いのだろうか、ときっと思い悩む。
忍者ショーの先輩に「お前がいてくれて良かったよ」と言われたときの立石の表情が忘れられない。自殺せず「エア切腹」だったのは線香花火の美しさを思い、「誰かのために役立ってから大義名分のために死にたい」ということだったのかもしれない。

立石はアユミに忍者ショーでの失敗を「佐伯に向かっていける度胸があればきっと越えられる」と言われたときに「越えないことの方が難しい」と言っていることから普段は誰かを殺さないようにセーブして生きている。スタントマン時代に起きたアクシデントや、アユミの祖父隆三を死にいたらしめたバイクの突然の暴走も、あの神の啓示を受けた出来事と同じような、目も眩むほどの光がトリガーとなって、別人格かと思うほどに「困ってる人がいれば助けるのが当たり前」の立石が容易く一線を「越えて」しまうのだ。

殺してしまうかもしれないから人と距離をはかり、それが却って関係を構築出来ず壁を作り、誰にも頼られず、頼らず、レゾンデートルが無い。

しかしその不安定で盲信的だった立石のアイデンティティは、PJキットに「100%日本人である」とされたことで裏付けされたのだ。立石からしたらそれはもうとんでもないGOサイン。それでいい、間違いじゃないと初めて承認欲求を満たした外部的要素だったのではないか。

だからアユミが助けを求めてきて全員殺してくれという懇願は「越えること」と「困ってる人がいたら助ける」のどちらも叶えるハイパー立石さんタイムなわけで。立石にとって人生で初めて存在を認められ、不自由から解放され、力を発揮できる瞬間が来た、それは神に認められたと言ってもいい。

今までの自分をまた殺し、生まれ変わり、助けを求めてきた人のために力をふるえる。

エア切腹で何度も自殺した立石が、やっとおのれの死をもってカタルシスを獲られるっていう皮肉。

人間の元々の在り方として性善説と性悪説がある。

虚言癖も最初は己の心を守るためだったかもしれないが、盲信するうちに、言葉を発することでそれが真実だと本気で信じてしまうのではないだろうか。言うなれば己限定の"言霊"として。

そしてそれを発する脳に指令を出した思考元の「言語」によって考えや行動が確立されているとしたらどこに連れて行かれるのか?

私にも線香花火の熱さは残った。
生来のサイコパスだから、と彼を単純に切り捨てることは出来ないのかもしれない。

…とか真面目に言っておいて
結局ラスト20分のハイパー立石さんVS仁義無き陣内組長と仲間達タイムが至高過ぎて語彙力失いますよね~
仮面ライダーかな?なバイクが爆破で起こった煙の中からこんにちは!するジャンプからの江戸村ワンダーランドで繰り広げられるどこか幻想的な世界での美しい血飛沫、一発でしとめられるのにアユミを撃った黒崎に脚を狙って手裏剣を地味にザクザク投げて、動けなくなったところを刀の柄でがつがつ殴る暴力性、陣内と死闘のなか、日本刀より最後は生身の肉体でガチ戦闘のとことか楽しすぎて脳汁ドッバドバ出て無理。

万人受けは決してしないけど大好きな映画です。
頼むからみんな観て~!


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