ヤタベフミタカ

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受動的な幸福というものがあるだろうか。 おそらくそんな幸福は快楽と区別出来ない類のものだろう。人間は自らの力が発揮できる場所においては苦痛に対してすらも幸福を得ることができる。快楽と幸福の違い。

    • ワタシにとっての幸福とは簡単である、幸福は過去にも未来にも無く、何も行動しないなら現在にも無い。 ワタシはただ尻尾をたたんで今まさに獲物に飛び掛からんとするあの猫の、全身全霊の幸福を求めているのである。

      • 不幸だから死にたくなる? いやそうじゃ無い、不幸は事故のようなものであって不幸に見舞われて死ぬのは事故死のようなものだ。人間が死を望むまで無私になれるのは幸福の絶頂にあってこそだ。それは 末期癌を宣告されて尚、迫り来る大波に挑むサーファーの気持ちになる事だ。

        • 運命はどうすることもできない力であなたを翻弄するかもしれない。でもその運命を生き抜いたあなたは自分の運命に意味付けすることは出来る。それは全ての運命を笑い飛ばす威力を持つあなたにしか出来ない立派な仕事であるはずだ。

        受動的な幸福というものがあるだろうか。 おそらくそんな幸福は快楽と区別出来ない類のものだろう。人間は自らの力が発揮できる場所においては苦痛に対してすらも幸福を得ることができる。快楽と幸福の違い。

        • ワタシにとっての幸福とは簡単である、幸福は過去にも未来にも無く、何も行動しないなら現在にも無い。 ワタシはただ尻尾をたたんで今まさに獲物に飛び掛からんとするあの猫の、全身全霊の幸福を求めているのである。

        • 不幸だから死にたくなる? いやそうじゃ無い、不幸は事故のようなものであって不幸に見舞われて死ぬのは事故死のようなものだ。人間が死を望むまで無私になれるのは幸福の絶頂にあってこそだ。それは 末期癌を宣告されて尚、迫り来る大波に挑むサーファーの気持ちになる事だ。

        • 運命はどうすることもできない力であなたを翻弄するかもしれない。でもその運命を生き抜いたあなたは自分の運命に意味付けすることは出来る。それは全ての運命を笑い飛ばす威力を持つあなたにしか出来ない立派な仕事であるはずだ。

          礼儀と言うものが礼儀のための礼儀でしかないようなものであっても、それでもないよりはマシだと思う。礼儀を示す動機として誠実さや慎み深さ思慮深さがあればそれは完璧な礼儀だけど、完璧な礼儀が態度で示せる人は今まで何人も会ったことがない。社交辞令と礼儀は異なる作法だ。

          礼儀と言うものが礼儀のための礼儀でしかないようなものであっても、それでもないよりはマシだと思う。礼儀を示す動機として誠実さや慎み深さ思慮深さがあればそれは完璧な礼儀だけど、完璧な礼儀が態度で示せる人は今まで何人も会ったことがない。社交辞令と礼儀は異なる作法だ。

          今死ぬか生きるかの瀬戸際を駆け抜けている時、そんな修羅場のど真ん中には何の悩みもない。常に悩みとヒマはセットなのだ。

          今死ぬか生きるかの瀬戸際を駆け抜けている時、そんな修羅場のど真ん中には何の悩みもない。常に悩みとヒマはセットなのだ。

          想像力が自分の敵に回るのは大変マズい事だ。後悔と懺悔の念は敵に回した結果だ。想像力を飼い慣らすにはとりあえず何も恐れずチャレンジしてみることだ。 仮に失敗して振り出しに戻っても想像力はあなたを追い回したりしないだろう。

          想像力が自分の敵に回るのは大変マズい事だ。後悔と懺悔の念は敵に回した結果だ。想像力を飼い慣らすにはとりあえず何も恐れずチャレンジしてみることだ。 仮に失敗して振り出しに戻っても想像力はあなたを追い回したりしないだろう。

          生きているから呼吸をするのではなく、呼吸をするから生きている。 同じように人間の身体的動作とは意思より先に発せられる。

          生きているから呼吸をするのではなく、呼吸をするから生きている。 同じように人間の身体的動作とは意思より先に発せられる。

          勘違いしないようにしたいのは、運命の良し悪しが重要なのでは無いと言う事。最も大事なのは運命そのものでは無く、運命に対する自らの態度なのだ。

          勘違いしないようにしたいのは、運命の良し悪しが重要なのでは無いと言う事。最も大事なのは運命そのものでは無く、運命に対する自らの態度なのだ。

          感情を意思に従わせるのは無理な相談だが意思は身体の動きなら従わせる事が出来る。 そして感情とは身体の快・不快によって気分を産むのであるから、感情を意思の元に置きたいなら進んで身体を動かす事が肝要になる。

          感情を意思に従わせるのは無理な相談だが意思は身体の動きなら従わせる事が出来る。 そして感情とは身体の快・不快によって気分を産むのであるから、感情を意思の元に置きたいなら進んで身体を動かす事が肝要になる。

          自分自身を説得するためだけに何か行為に駆り立てられてる人がいる。彼は思慮が足りないだけの行動を情熱的であると言うし、 ただの優柔不断でさえも臨機応変だと考える。批判精神を伴わない学習能力とは概ねこのような人物の行動と大差はない。

          自分自身を説得するためだけに何か行為に駆り立てられてる人がいる。彼は思慮が足りないだけの行動を情熱的であると言うし、 ただの優柔不断でさえも臨機応変だと考える。批判精神を伴わない学習能力とは概ねこのような人物の行動と大差はない。

          死というものは、言わば壁だ。 ぶつかったら最後、そこで終わり。 我々生者が出来ることはその壁から跳ね返った反響を聴いてただ解釈することだけだ。 壁を突き抜けてその先に行くことは出来ないし、そこには天国も地獄もない。

          死というものは、言わば壁だ。 ぶつかったら最後、そこで終わり。 我々生者が出来ることはその壁から跳ね返った反響を聴いてただ解釈することだけだ。 壁を突き抜けてその先に行くことは出来ないし、そこには天国も地獄もない。

          何かをしようと思うなら、上手くいかないのは当たり前。最初から当たり前。 生きると言う事もみんな例外なく初めての経験で、上手くいかなくて当たり前。 明日がくる限り問題ない。

          何かをしようと思うなら、上手くいかないのは当たり前。最初から当たり前。 生きると言う事もみんな例外なく初めての経験で、上手くいかなくて当たり前。 明日がくる限り問題ない。

          人生に意味など無い。 真っ白なキャンバスでしか無い。 だからそこに思い通りの絵を描く事ができる。意味を与えることができる。

          人生に意味など無い。 真っ白なキャンバスでしか無い。 だからそこに思い通りの絵を描く事ができる。意味を与えることができる。

          欲の皮袋にモノを詰め込む作業というのは賽の河原で石を積まされる作業とさして変わらぬ徒労である事を知ることが、足るを知るという事の前段階に必要な理解であると思う。

          欲の皮袋にモノを詰め込む作業というのは賽の河原で石を積まされる作業とさして変わらぬ徒労である事を知ることが、足るを知るという事の前段階に必要な理解であると思う。

          そもそも正しい人生なんてあるのかな。 生きている人は皆そんな人生があるのかを実験中の身でしかない。 正しい人生がハッキリしない以上、間違った人生と言うのがあるかも疑わしい。過去の失敗や無駄な時間が思わぬ拍子に花開く事もあるし、事の成り行きを最後まで見届けるには人生は短すぎる。

          そもそも正しい人生なんてあるのかな。 生きている人は皆そんな人生があるのかを実験中の身でしかない。 正しい人生がハッキリしない以上、間違った人生と言うのがあるかも疑わしい。過去の失敗や無駄な時間が思わぬ拍子に花開く事もあるし、事の成り行きを最後まで見届けるには人生は短すぎる。