両親へ「ありがとう」 揺るぎない深い愛に感謝

第100回

難聴ソルのゆんたくTime

2019年(令和元年)9月12日 島原新聞掲載


感謝の気持ちを伝えるのは、簡単そうで実は難しいことです。それが身近な人であればあるほど生活の中に紛れてしまい、ありがたいと思いながらもその場で伝えることができないことが多くあります。

2010年8月の第1回掲載から島原新聞連載100回目を迎えるにあたり、何をテーマにしようと考えたときに、私を私であらしめてくれた母への感謝の気持ちを書きたいと思いました。私はよく「あなたの話し方は難聴ということを感じさせないですね」と言われます。ただ、これは生まれつきではありません。私が難聴だと分かった日から、母の言葉の訓練が始まったのです。それは厳しいものでした。

幼稚園から帰ると「言葉のお勉強を始めるよ」と母から呼ばれます。「サ、シ、ス、セ、ソって発音してごらん」と言われ、自分なりに言っているつもりですが、実際にはきちんとしたサ行の音にはならず、「しゃ、しー、しゅ、しぇ、しょ」と空気が漏れた音にしかなりません。母は、そんな私に「お母さんの口を良くよみなさい」と何度もお手本を示してくれました。でも、なかなか上手くいかず嫌になるばかり。妹と遊びたいのに、どうして私ばかりこんなことをしないといけないんだろうと幼い頃はとても辛いと思っていました。

母との言葉の勉強は多岐にわたっていました。

「雨がシトシト降っています。雨がザーザー降っています。違いは分かる?」私が分からないと答えると絵を描いて説明してくれました。同じように図鑑や絵本を見ながら「これは何かな?」と質問し、ものには名前があり、言葉には音があるということを繰り返し教えて、私の語彙を増やすために様々な工夫をしてくれました。本を読んだり漫画を読んだりして、文字を学び文章を書くことで、コミュニケーションがとれること、会話が出来ることを教えてくれました。毎日毎日これが続きました。

今、このときのことを思い出すと、母がどんなにか大変だったろうと思います。ある時、母に「私が難聴ということで、健聴の子をもつお母さんと違う苦労をしたのではないか」と言うと、「大変でないということはないけれど、大変さよりも陽子が一つ一つできるようになるたびに幸せを感じていたのよ。幼稚園の卒園式で名前を呼ばれて『ハイ!』と返事ができたのがとても嬉しくて泣いてしまったのよ。健聴の子をもつお母さんとは違う喜びも沢山もらったのよ」。そんな風に母は答えました。迷惑ばかりをかけていたと思っていた母からこの言葉を聞いて、私は幸せな気持ちになりました。幼い頃には厳しいと思っていた母でしたが、その厳しさが愛情であったことにも気づけました。

父も、私が聞こえないことで辛い思いや寂しい思いをしないようにと常に気遣ってくれていましたし、補聴器を選ぶ時も「補聴器は陽子の耳だから」と言って、良いものをつけさせてくれました。改めて思い返すと、父も母も、小学生、思春期、それぞれの愛情をもって、私が必要な時にはいつもそばに寄りそってくれていました。そしてそれは成人した今もずっと変わりません。

今の私が私らしく生きていられるのは、愛情を持って私を育て支えてくれた大切な両親がいたからです。そのかけがえのなさ、ありがたさを大人になった今改めて感じています。ありがとう、という言葉だけでは言い表すことのできない感謝の気持ちで胸がいっぱいです。

私は今40歳。この歳まで生きてこられて新聞連載100回を迎えることができたのも、父と母の揺るぎない愛情があってのことです。普段なかなか言ってこなかった感謝の気持ちを伝えます。今、私は幸せです。パパ、お母さん、ありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?