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介護essay#6 お見舞い失敗

お見舞いを終えて帰りぎわ、老母から
「来てくれて嬉しい」「これからもがんばって生きたい」の言葉が出たので、「つつがなく終わった」とは言えるのでしょう。でもやはり、お見舞い失敗の一日でした。そんな話をさせてください。

平日は私が一人で電車やバスなどで行くお見舞いですが、この日は休日。夫に車を出してもらい、室内飼いの犬はペットサロンの一時預かりをお願いして、準備は万端でした。しかしこの日の私はしつこい咳風邪が治ったばかり。本当はゆっくりと休みたかったのです。

でも、もう夫も出かける用意を済ませてしまったし、ペットサロンも今からではキャンセル料がかかるし、きょうだいたちにも「この日は私がお見舞い担当(誰かしらが週イチでお見舞いに行くようにしています)」と言ってあります。

母本人にも昨夜メールで「明日行くね」と伝えたばかり。よほどの体調不良でもないかぎり「やっぱりやめた」とは言い出しにくい状況です。

行くしかないか…私の中で、逃げ場のない、追い詰められたような感情がわきあがります。

そもそもお見舞いに行くには雑多な手間がかかるもの。今回の差し入れはお菓子と雑誌のほか、本人リクエストのペンと手帳、使い捨てマスク、そろそろ転院も近いので着替えや移動の荷物をまとめるための紙袋など。

実の母親とはいえ「自分のため」ではなく「他者のため」となると、細々したものを探して用意するのは、実は意外と面倒なものです。スーパーやドラッグストアに行くたびに母からの『頼まれもの』を探してカゴに入れ、別会計で精算していると、毎日の生活そのものが「パシリ」化したようで、かなりつらい。

心に墨を流されたような不満をなだめつつ向かったお見舞いですが、この日は老母本人のテンションも低い日でした。お見舞いでの会話も

「この先どうなるの」「もう帰ることができないなら、いっそ家は売り払ってちょうだい」などなど・・・。

いつも明るく前向きな母ですが、さすがに「もう一生寝たきり」とお医者様に告知されたばかりの今、感情が理性に追いついていない様子です。

こんなときは「うんうん」と「傾聴」するしかないのでしょう。いろいろ言いたくなる気持ちをおさえて、ひたすら聞き役に回ります。親よりも「大人」として振る舞わなければならないので、これもやはり大きなストレス。

けっきょく、夫の全力のサポートがあったにもかかわらず 私の「うんざり度」は最高潮に達し、咳風邪もやっぱり ぶり返す結果となりました。

老母は85歳です。少なくともあと10年は生きてほしい。できれば、毎日をゆっくりと楽しみながら。そのためのサポートはしていきたい。

そう思っていながら同時に、「子供側が一方的に 尽くす」このパターンはいつまで続くの? そんな気持ちになってしまいます。

疲れているとき、体調が悪い時は介護をパスーーそうできたらいいのですが。


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