金木犀の少女


この文を親愛なる安壇美緒先生と、集英社に贈る

11月も後半にさしかかった東京は、寒暖を繰り返しながらも着実に冬の装いに移ろいつつある。
この時期、日本人の目を楽しませてくれる植物と言えば紅葉やいちょうの名前がまずあがるだろう。私は恥ずかしながらも植物には疎く、本作を読み終えてから後にニュースでいちょうを見るまで金木犀といちょうを混同しており、
「なんでこんな植物を名前に据えたんだろ。銀杏が臭くて嫌いなんだよな...」
とずっと腑に落ちないままでいた。
しかし正しく金木犀を認識した今、この植物が作中で描かれる宮田の人間性を、そしてそれに続くメテオラもまた奥沢をよく表した言葉だと私は感じている。

人の心情の移ろいを描く作品を面白いと感じるようになったのはまだ最近のことで、こういった作品を読み進める際にはやはりタイトルにもなっている「金木犀」というワードがいちいち目に付く。
といっても読了後に改めて最初のページから、その言葉が書かれていたページを抜き出してみればさほど多くはならない。

1 金木犀が北海道にはあまり生えていない話で盛り上がるシーン
2 流星群を見るために山の入口に入っていくシーン
3 汐見と一緒に旧宣教師館に入っていくシーン
4 時枝先生から奇跡はそこら中にあることを諭されるシーン

私が自力で見つけることができたのは以上4か所であった。そして面白いことに4を除けば、金木犀は全て宮田サイドで語られる時にのみ情景描写の中に姿を現しており、更に言えば4で出てくる金木犀は漢字ではなくわざわざカタカナで表記されている。やはり宮田の中にある“何か”を表すものとして描かれていたのではないか?と想像を掻き立てる。
が。ではその“何か”とは何なのか。
そもそも宮田は何に対して葛藤を抱いていたのだろうか?

その解の根源を私は死んだ宮田の母「笙子」に求めた。
本作を通じて笙子の描写は極端に少ないように思われた。宮田が母の死をどのように受け入れているのか?そもそも自分の中で受け止めきれているのか?母のことは好きだったのか嫌いだったのか?その一切が少なくとも読書初心者の私には、ベールに包まれたまま終わってしまったように思われた。
では笙子はさほど重要でないかというとそんなことは全くない。天井から聞こえてくる母の声に怯える姿や、もういないはずの母親に怒られてしまうと泣きわめくシーンなど、明らかに宮田はその胸中に笙子を見ていることがわかる。
しかし笙子は宮田にとって必ずしも恐怖だけの対象であったわけではないと思う。
実は宮田が母を亡くしてから、宮田の周りには彼女の頑張りを真に肯定してくれる者がいなくなってしまっている。宮田に関心を持たない父、鎬を削りあってきた数々のライバルたち、彼らの中に宮田はたった1人で取り残され、かくして宮田は「小学5年生」のまま前に進むことができなくなってしまう。

私も似たような経験をしたことがかつてある。大学への進学を機に上京した私は、人生初のアルバイト先で自分の常識知らずっぷりを大いに痛感させられた。勉強と部活による2色刷りの世界に生きていた私は、アルバイトは愚か、ひとりで飲食店で食事したことも、無論炊事洗濯もしたことがなかった。そんな中でも苦労したのは人付き合いだった。存外人の間で生きていくというのは辛い部分が多く、その只中にわずか中学生にして放り投げられた宮田が、自分という存在を守るのに必死で前に進む足取りを止めざるをえなかったように私には思われた。

この前に進むことができなくなった「小学5年生の宮田」こそ、先ほど述べた“何か”ではないか。
宮田は全体を通して自分の能力を高く買い、周りを下に見る場面が多く描かれている。それが原因となってみなみとぶつかってしまうこととなったが、その様にはまさに成長が止まってしまったかのような彼女の幼さがよく表れている。その幼さを年下の汐見によって明らかとされてしまうのは何とも皮肉だが、金木犀の花はその愛らしい外見とは裏腹に「気高い人」という花言葉を持つ、まさに宮田そのものとも言える植物だ。

#読書の秋2020 #金木犀とメテオラ


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