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虚光

バケツが要るので、仕事帰りに百均に向かう。くたびれた十八時半。
行きがけに確認したATMの画面に映し出された大して増えていない預金。五年前とほぼ変わらぬ手取り。溜息を肺の奥に飲み込む。
最寄りの百均への近道は百貨店の中を突っ切るコースだ。ずらり並んだ消毒液と体温計カメラの歓迎を受け、天井の高い一階フロアに足を踏み入れる。白い床にベージュの光。
並ぶ煌びやかな装飾品。GUCCIやPRADAのショーウィンドウが金色に輝いて、その前を敗残兵の気分で通り過ぎる。出口手前の香水コーナー、スパイシーでスパイキーな香りが鼻を突き抜けて、逃げるようにドアを引き開ける。
一歩出れば雨上がりの高架下。白々しい白光がアスファルトにちらついて、蒸し暑い八月の暗闇をどこか懐かしいものに見せている。見せかけている。遠い昔、新宿東口の飲み屋帰りに通った濡れた交差点。カウンターで馬鹿な話をして、常連と肩を組んで笑っていたあの頃。未来は良くなるとまだ信じていたあの頃。信じて歩く力があったあの頃。
ビニール袋を提げて戻る道すがら。ヘッドフォンから流れてくるのは十年前のシューゲイザー。あの頃の自分との相違も連続性も今や見いだせない。エスカレーターを降りてホームに立つ。南も北も、隣駅の明かりは遠すぎて見えない。過去も未来も、断絶したこの場所からは遙か彼方だ。
息が上がる。マスクの中は湿気で不快だ。溺れそうな隙間で、喘ぐように息をする。電車が来る。振動が身体を伝う。息をする必要があるのかと思う。
それでもまだ。朧気で虚しく、変光星のように明暗繰り返す過去と未来。彼方にあって、見えずともなお消えない埋み火。誰かの助け、かつての思い出、いつかは上手く行くという期待。
高架下で見た虚ろな光がホームドアを照らしている。湿った空気を吸う。飲み込む。豆電球より小さくとも、未だ前を行く蛍火が、開いたドアに飲み込まれていく。私を乗せて、電車は暗闇を走り去る。
空っぽのバケツが揺れた。

ビールがのみたいです🍺