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月の居る町(短篇小説)

「それで、お月さまって一体誰のことなんです?」「お月さまはお月さまに極まってるだろう」
 小さな町の小さな交番に、ある晩、お月さまに殴られた●●氏がやってきて──。

 
2023年5月に完売した同人誌の有料公開です。月に狂う、大人向け童話。



「で、今度はいかがいたしましたかな、●●さん」
 夜風が心地よい、秋のはじめの晩でした。「どうしたもこうしたも」そう返す老紳士の顔は怒りで真っ赤に茹で上がっています。彼の切れた口の端を見れば、誰かにひどく殴られたであろうことは明白でした。髪は乱れ目は血走り、ついでに全身酒くさいその有り様は、彼の着込む見るからに上質なスーツや小粋に整えた白い髭などを、台無しにするには十分でした。
「月に殴られたのだ!」
 身を乗り出して●●氏が叫ぶので、消毒液の染み込んだ綿が彼の頬骨にピンセットごと勢いよくぶつかりました。ああこれは痛いな、とまわりは思いましたが、誰も口には出しませんでした。●●氏は何とか悲鳴を飲み込み、手当てしていた若い警官をにらみました。
 ここはワインの産地として少しばかり名の知れた、とある小さな町のどこにである小さな交番です。●●氏の口元にガーゼが貼られたところで、定年間近の巡査部長が机越しに●●氏の前へと座りました。
 どっこらせ、という独り言から調子を変えることなく、巡査部長はかっかする●●氏の相手を始めました。
「そんなことを仰いましても、あなたが先に手を出したとの目撃情報がきているんですよ。往来で派手にやりあったでしょう」
「あいつは私の妻と密会しておったのだ! 殴られても文句の言えぬ立場だろう!」
「ははあ」
 ●●氏は額がぶつからんばかりの勢いで部長に顔を寄せ喚きます。部長は背中をそらしながら、大きくゆっくり……だいぶおざなりに……頷きました。
「弁護士はやつが月だから訴えることもできないとぬかすのだ」
「まあねえ、それはそうでしょうねえ」
 交番の電話が鳴り出しました。はあ、また喧嘩かな。部長はベルに負けない大きなため息をつきました。満月の晩はこれだから忙しい。
「警察も同じですよ」受話器に手をかけて、部長が首を振ります。
「お月さま相手に被害も逮捕もない。ですからあなたがお月さまを殴っても、傷害事件にはなりませんねえ。……さあ君、●●さんをお見送りして。●●さん、その怪我はきちんと病院で診てもらった方がよろしい」
 救急箱を片付け戻ってきた若い巡査は、電話をとった部長に身振りで了解の意を示しました。
 ●●氏は不服そうな顔を隠しもしませんでしたが、巡査のような若造に話しても仕方がないと思ったのでしょう、渋々立ち上がりました。
「お気をつけて」
「ふん、」
 少し酔いの覚めた足取りで、●●氏は街灯の向こうへと消えてゆきました。
「はあ~、猫ちゃんですか。はあ、行方不明になってから半日。はあ、はあ、心配ですねえ。いや、こちらでは見かけていないですがねえ」
 巡査が中に戻ると、部長はどうやら迷い猫の相談を受けているようでした。お茶を淹れようとする巡査に気づき、部長がにっこりします。巡査は胸の前で両腕を交差させ、拒否の意を示しました。部長は期待しているのはアルコールなのです。巡査の様子に、部長は大袈裟に片方の眉を持ち上げました。
 巡査部長は電話から解放されたのは、お茶が湯気を吐き出すのをやめすっかり沈黙してからでした。
 日付が変わるまで、あと数分というところでした。小さなこの町で起こる事件は、今夜も酔っぱらいの喧嘩と過保護な主人に飽き飽きした気まま猫の失踪だけで終わりそうです。巡査は平和を愛する根っからの善人ではありましたが、同時に、夢や希望を胸に意気揚々と遠い町までやってきた青年には、この町は少し物足りないのでした。
「●●氏はごねらず帰ったかい」
「ええ、まあ」
「あの人もなあ、お月さまさえ絡まなきゃ気のいい人なんだがなあ」
 ●●氏は過去何期も町長に就任したことのある地元の名士です。「町を代表して君に歓迎の意を示そう」春に巡査がこの町の警官としてやってきたとき、彼は両手を広げて堂々とそう云ったのでした。
 あれは幻だったのでしょうか。今夜の●●氏の何とみっともなかったこと……。
 お酒はこわいな、巡査は他人事のように思いました。彼は一口お酒を摂取するとその場でばたんと倒れてしまうほどの下戸で、それゆえ、酔っぱらって浮かれたり暴れたり、酔いが覚めてから羽目を外した記憶に頭を抱えたりといった経験などは持たないのでした。
「それで、お月さまって一体誰のことなんです?」
 小さな町のこと、住人の顔や名前は粗方頭に入れたと思っていた巡査でしたが、「お月さま」などという呼び名の人物に心当たりはありません。
 ところが、上司の返答はこうです。
「お月さまはお月さまに極まってるだろう」
「ですからどなたなんです」
 巡査部長は皺に埋もれた両の目を見開きました。「君、まだお月さまに会ったことがないのかい」
 いかん、いかんよ。部長が繰り返します。やたらに芝居がかった物云いですが、こんな風に語るのは彼の癖なのです。
「いくら君が下戸だからって、一度もお月さまに会ったことがないというんじゃあ、この町のことを知っているとは云えないぞ。彼は週に二、三度は仕事から逃げ出して酒場に入り浸ってるから、まあ酒を飲みに行けとは云わない、名目はパトロールでも何でもいいから、とにかく顔を合わせておきなさい」
 巡査部長は云うだけ云うと、大きな欠伸をひとつして、さっさと仮眠室に行ってしまいました。●●氏の件さえなければ、彼は今頃、とっくに夢の中だったのです。
 真夜中にもかかわらず賑やかだった交番は、巡査ひとりになった途端、そこここの隙間から静けさがするする沁み込んできて、あっという間にさびしい夜に丸ごと浸されてしまいました。巡査はカップの最後の一口を飲み干して、窓に目を遣りました。
 ガラスに映るのは反射した室内の様子ばかり、外についてわかるのは暗いということくらいです。何かが足りない、巡査は心のなかで呟きました。
 どうにもしまらない、気の抜けた炭酸みたいな夜でした。



「おや、珍しい顔がやってきた」
 次の晩、巡査は町で一番客の多いとある酒場に顔を出しました。私服姿の巡査にいち早く気づき、店主が声をかけます。
「下戸の坊っちゃんがどんな気まぐれかな」
 開店から間もない時間帯だというのに、席はもう半分以上が埋まっています。 巡査はカウンター席に腰を下ろしました。
 この町に赴任したてのとき、巡査は部長に連れられここへきたことがあります。誘いを断りきれずビールを飲んで、店主や部長には随分な迷惑をかけたのでした。以来、部長が彼に酒を勧めることはありません。「ちょっと情報収集に。……ミルクをひとつ」
 決まり悪げに声を落とす巡査に、店主は大きな笑い声を上げました。店に響く声はからっといていて、店主の気の良さをよくよく表しているように思われます。
「昨晩●●氏が喧嘩をして警察沙汰になった話は耳に入っていますか」
「そりゃあ勿論。こんな小さな町では隠し事なんぞできやしないさ、町中の人間が知っているってもんだ。警察まで出てきて●●氏もさすがに恥ずかしく思ったんだろう、今日は家に籠ってるって話さ」
「それなら当然、喧嘩の相手もご存知ですね?」
「ああ。そもそも●●氏が往来で派手に喧嘩する相手なんて、彼以外にいやしないね」
 よし、すんなり本題に入れたぞ、と巡査は思いました。お月さまとは一体誰のことなのか、昨日部長にはぐらかされた疑問がむくむくと大きくなって、彼は飲めもしないのにわざわざ酒場へやってきたのです。
 本来ならば事件現場である酒場に赴くのが早いのですが、当の酒場はお月さまが●●氏を殴り飛ばしたときに割れた窓ガラスの修繕のため、今夜は臨時休業なのでした。
 ミルクパンから白い湯気が上がり始めました。店主はマグカップを片手に火を止めます。
「●●氏は結婚する前から奥さんとお月さんの仲を疑ってたらしいからなあ。俺がこの店を開いたときにはふたりはもう結婚してたから、少なくとも、二十年は前からだぜ。なのに中々尻尾をつかめないもんだから、●●氏もそりゃあストレスが溜まるってもんだ。普段は立派な顔をしているが、時々酔っぱらってお月さんに突っかかる。いや、それでも善い人には違いないさ。みんなそれを知っていて町長に推してきたわけだしな。町の人が酔っぱらいに寛容だってのもあるけど、まあ、同情もしているわけだ」
 何てったって、あのお月さんが相手じゃあなあ。店主は巡査の前にホットミルクを置きました。
「勝てっこないだろ、あんなのにさ。恋人を取られたらそれで終わりだし、喧嘩なんかしたら一方的にやられるに決まってる。皆分かってるから、負けっぱなしでも喧嘩を仕掛ける●●氏の度胸に一目置いてるんだ」
 ここまで聞いてもお月さまが誰のことか、巡査にはさっぱり思い当たりません。巡査は●●氏の年老いた、しかし今でも十分に整って男前な細面を脳裏に思い浮かべました。金も名誉も余るほどに持つ彼が、負けて当然の相手とは……。
「その、お月さまってのは一体全体誰なんです」
「誰って、あんた」
 店主が吹き出しました。今更何を云ってるんだい。
「お月さんは空にひっかかってるあいつしかいないだろうよ」



 お店が本格的に混みはじめ、酔っぱらいが次々絡んでくるようになったので、巡査は酒場から退散しました。町の人たちは基本的に善良ですが、やたらと酒を飲ませたがるのが難点です。
 整列する街灯の下、気ままに吹き抜ける秋の夜風が、巡査の頬をやさしく冷ましました。石畳の道をのんびり歩いていくうち、体内にこもった酒場の熱気も、ゆるりほどけて空中に融けていきました。
(しかしどうも、俺は担がれているのかもしれないぞ)
 巡査は空に架かる月を眺めながら唸りました。
 事の顛末は大体以下のような具合でした。

 ●●氏は若い頃から、たびたびお月さまと喧嘩騒ぎを起こしていた。それは●●氏の奥方が、氏との結婚前からお月さまとただならぬ仲であったという疑惑によるものである。ただしお月さまは決して尻尾を見せず、また、お月さまにとっては奥方との関係も数ある噂のひとつでしかないため、これまでの長きに渡り、決定的な問題にまでは発展しなかった。しかしこの度、逢い引きの定番であるモーテルから●●氏の奥方とお月さまが出てくるのを町の人間が目撃、それを●●氏の耳に入れた。長年の疑惑が確信に変わった●●氏は、昨晩、酒場で飲んでいたお月さまを外まで引っ張り出すも、ものの見事に返り討ちにされた。
 尚、お月さまは警察が現場に駆けつける前に逃亡、怪我を負った●●氏のみが交番へ連れて行かれたものである──。

 まあよくある話に思えるのですが、よくある話にしては不審な点がひとつ。店主も客も●●氏の喧嘩の詳細を競うように教えてくれるのに、お月さまの身元となると、「お月さまはお月さまだろう」の一点張りなのです。
 もしや名前を口にすることもできないほど、権力のある人間なのでしょうか。●●氏が訴えようとしてもなかったことにされるほどに……。
 だとすれば若い警察官の正義感も燃え上がるというものですが、この平和な町にそんな権力者がいるとは、巡査にはとても思えないのでした。
 南の空高くに浮かぶ月は、欠けるところなく丸く見えました。とはいえ満月は昨夜なのですから、どこか少し欠けているのです。巡査はじッと月の輪郭を睨みます。
 ふるる、と月が揺れました。「え?」瞬きをすると、月はもとの通り空中で停止しています。
「疲れてるかな」
 二、三度まばたきをして、巡査は止めていた足を動かしました。あと少し視力が落ちてしまうと眼鏡をかけなければならないくらいには、巡査は目が悪いのです。夜更かしして本を読むのがいけない、と反省します。
 お月さまを正面に据え、まっすぐ道を行けばそう時間のかからないうちに官舎が見えてくるはずです。今夜の成果のなさに巡査の足は迷いましたが、ま、仕事でもないし、明日もう一度部長に聞いてみよう、案外あっさり答えてくれるかもしれないぞ、と気を取り直して顔を上げました。
 ところがです。
 真正面に輝いていたはずの月が、どこにもありません。
 雲に隠れたかと思うも、空には千切れた白雲一片ない。びっしりと空に縫いつけられた星が、町の明かりに負けることなく光っているのです。
 巡査は空をぐるりと見回し、ついでに自分も一回転しました。ない。月がない。巡査が無意識に月と逆方向に歩いていたのでも、何時間も立ったまま寝ていたために月が移動したのでもありません。
 月が、忽然と消えたのです。
 そんな馬鹿な、と巡査は思いました。月の消失、これは正真正銘の大事件です。
 巡査は駆け出しました。己の職場である交番へと向かいましたが、途中、橙色の明かりが窓から漏れる店を見つけ、咄嗟に中へ飛び込みました。
「大変です、月が空からなくなりました!」
 叫んでから、自分はだいぶ馬鹿なことを言ったぞ、と巡査は思いました。中にいた人々が、ぽかん、とした顔で一斉に巡査を見たからです。
 けれど、優雅にグラスを傾けるマダムの赤い唇が発した言葉は、巡査の予想を大いに裏切りました。
「それが一体どうしたの」
 そこはバーでした。仕事上がりの肉体労働者たちがひしめく先ほどの店とは違い、薄暗い店内は狭く人もまばらですが、調度品といいカウンターのうしろに並べられたボトルの多さといい、金の払いを惜しまない客層に支えられた店であるのは、巡査にも一目で理解できました。
「あの人が仕事をサボるのなんて、いつものことじゃない」
 カウンターに腰かけるマダムの後ろで、バーテンダーが頷きます。「月の半分も仕事をしていないんじゃないですかねえ」
 いいご身分ですよねえ、と辛口ながら嫌みに感じさせない爽やかな口調で、バーテンダーが巡査ににこりと笑みを投げました。
 そこには町の警察官を労う意味が十分に込められていたのですが、巡査にそれを理解する余裕はありません。
「いえ、あの、いなくなったのは人ではなくて……」
「分かっているわよ、お月さまがサボっているんでしょう」
 マダムが当然とばかりに頷きます。
「お月さまがいないと夜が暗くて困るんですよね」
 マダムとバーテンダーに続いて、奥のソファーに沈んでいた客が口を開きます。「だがお月さまに面と向かって文句を云う人間はいないのさ」
「おや、あなたは云うじゃあありませんか、タルホさん」
 バーテンダーが奥の客に微笑みます。
「それからそこのマダムの旦那もな。しかしそれはやつにとって、蝿の羽音にも等しい雑音でしかないだろう」
 そこで巡査は思い出しました。この、年は重ねているもののそこいらの若い娘よりはるかに美しいつり目のマダムは、●●氏の奥方なのでした。
 成程、町一番の金持ちが飲むバーとして、店は少々古めかしいながらも十分な威厳を湛えていました。
「昨日は家の者が迷惑をかけたわね」
 マダムが隣に座るよう巡査を促すので、巡査は流されるまま腰を下ろしました。「お詫びに一杯おごらせて頂戴」
「いえ、飲めないので……」
「でしたら紅茶は如何です。昨日入ったばかりの茶葉があるんですよ」
「あら、いいわね。新人警官さん、それでよろしくて?」
 紅茶を淹れるバーテンダーの流れるような手つきを見つめながら、巡査は先ほどのミルクにブランデーでも垂らされていたのだろうかと、頭を抱えたい気持ちでいっぱいでした。レコードが異国のメロディを囁くように歌います。

〽月よ 私をつれてって
 月よ 振り返ったなら
 どうかいつでも其処にいて…

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